Tranquillite d'eternite















 部屋は静寂に包まれていた。無論、部屋の外の世界は喧しく時を刻むのを忘れない。けれど、部屋の中は紛れもなく静謐に満たされていた。だれも言葉を発しない。ただ穏やかで平凡な寝息だけが、普遍の理のように規則正しく、一定の間隔で以て繰り返されていた。
 午後の日差しはカーテン越しに床へと届く。それは先ごろまでの春の繊細な光とは明らかに異なって、燦々と密室の温度をゆっくり上げていくものだった。暦が巡り、初夏から夏へと季節が転がり落ちるように移って行く。同じくわたしの魂も零落しつづけていく。
 出会った頃の幼さゆえの潔癖が無垢な、ともすれば神域にかかるうつくしいものなのだとすれば今となってはわたしは俗に塗れて醜く汚れてしまったのに違いない。それが恋というものなのだろうと気がついたのは最近のことで、それを気付かせたのは紛れもなく彼だった。

 無知たるわたしは、すべてが美しく朝日の様に、海原の波打つ水面の様に素晴らしいものなのだと信じて疑わなかった。苦しみも憎悪すら知らなかった稚拙な少女は、慈愛でさえも知る筈がなかったのだ。すべては類似品に相違なく、不格好な真似ごとに過ぎない。
 ただし、多くの物事は模倣から展開するのである。それを識っていて、彼はいつでもあんなふうに、笑っていたのだろうか。
 重い目蓋を持ち上げていくつか瞬いた。思い返せば、重ねた年は5つ。あの春の日の教室でわたしは彼と出会った。

 追憶は止まる処を知らずにはるか溯って行く。けれどわたしは物憂い思慮に飽きて、緩慢な動作で隣りに寝そべる彼に向き直った。
 普段太陽の下で活躍する彼の頬は日に焼けている。そっとなぞるわたしの指先とは明らかに違う皮膚の色が、自分と彼とは全く別々の個体なのだという事実を分かりやすく示していた。彼はいつもよりほんの少し幼い表情で穏やかな寝息を立てている。
 いつもは直ぐに起きるくせに、今日に限って如何して起きないのだろう。目蓋は閉ざされて、彼はわたしの手の及ばない夢の中にいる。わたしは覚醒しているのに彼の精神はまどろんでいるのだ。嘘か真実か判断のつかぬ曖昧な、体内宇宙の片隅の吹き溜まりに。
 途端脊椎を駈け登るかのように焦りや怒りや、整理の付かない感情が沸き上がった。不安なのだろうか。彼の夜の様に真っ黒な眸がこちらを見ないのが、こんなにも。

「侑士、起きて」

 思考が四肢へと十分に行き渡る前に、わたしの手は彼を揺すっていた。起きて、と繰り返し呼び掛ける。不安なのか或いは不満なのか、あまりよくわかっていなかった。ただ明らかに心細そうな掠れた声が喉から零れ落ちたことに自分で驚いている。
 わたしは彼の腕の中で生きる事に慣れきっていた。潔癖で稚拙だった頃より更に甘やかされて、今や少女の意固地なプライドは見る影もない。
 けれど1人で生きて行きたいだなどと、わたしはどんな顔をして言っていたのだろうか。


「…?」

 とりとめのない思考に陥っているうちに彼が目を覚ました。薄い目蓋の皮膚が漸く持ち上がって瞳孔がわたしに焦点をしぼる。瞬く間に覚醒する虹彩。漆黒という色はこういうものなのだろうと初めて思ったのも、こんな風に彼の眸を真正面から見つめた時だった。

 待ちわびた視線を浴びながら、わたしは彼の頬の皮膚を指で辿る。魂が枯渇するようだ。わたしのあなた。途方もない速度で以てわたしの心臓を破壊して行くいとしい声と背中、てのひら。幾度となく自分は彼に恋をしているのだと思い知らされてきた。今だってそうだ。この人の何もかもが欲しい。
 加速度をつけて転がり落ち始めたのは、出会ってからどのくらい経った頃だろう。欲情する心は少女のそれではないことを理解したのは。それが嫌でないと感じたのは、一体。ただ分かることは、全ての変化は彼が引き起こし、それに伴う動揺も不安も彼が全て受け止めてしまったということだけ。だからわたしはきっと、この腕の中の安穏がなければ生きていけない。けれど、それでいい。

 彼の名前をもう一度呼ぶと、大きな手がわたしに触れる。皮膚の厚い手のひらの感覚に、返事も待たず口付けたわたしはきっと、彼にしか見せない表情をしていたのだろう。彼の裡に独占欲が燻るのを感じた。気づかないふりをするけれど本当はずっと前から気づいている。欲情するのはわたしだけではない。何もかも異質だけれど、その感情だけは同じなのだ。
 受け入れる唇に熱が篭もる。彼がひどく嬉しそうにしたのを感じて、わたしは目蓋を下ろした。



(永遠の安寧)