静かな夜だ。
否、ただ、わたしが勝手にそう感じているだけだった。実際はいつもと同じ暑い夏の夜だった。時折蝉が鳴いて、こもったような熱を孕む真夏の闇を揺らし、往来を行く車のエンジン音が響く。そう遅い時間でもない。真夜中のような沈黙が占拠するはずもないのだ。
しかし、静かだと思った。きっと決戦を前にして緊張しているんだ。…自分のことでもないのに。
窓の外の夜空になんとなく目を向けながら、わたしはちいさく溜め息を吐いた。
彼は、どうしているだろう。
気になって落ち着かない。同い年とも思えない妙な泰然さを備える彼よりきっと、わたしのほうがそわそわしているに違いなかった。きっと、特に気遣わずとも大丈夫なのだろう。けれど気になってしまうと、何か一言伝えたくなってしまう。明日だって言えるし、朝一緒に行く約束をしているのに。今迄だって、何度も激励してきたのに。
それでも、今、伝えたくて仕方が無くなってしまった。いや、そんなのは口実で、声が聞きたくなっただけかもしれない。あるいは、自分が落ち着きたいだけなのかも。ああ、でも、もういい。
考えるのが面倒になって、わたしは携帯電話を手にとった。指がすんなりと、アドレス帳の中から彼の名前を選び出す。メールのし過ぎで癖になっているのだ。番号を選ぶと、受話器を上げるボタンを押した。これまでも数えくれないぐらいこのボタンを押して彼に回線を繋げてきたのに、今日は妙に緊張する。
2回目の着信音の途中で、彼は電話に出た。
『…はい』
「あ、もしもし」
『電話て、珍しいな。なんかあった?』
「あ、ううん、なんか…なんとなく…何してるかなあと思って」
妙につっかえながら答えると、彼は向こう側で苦笑したみたいだった。耳元で不思議な電子音が微かに混じって、それでも紛れもない彼の鎖骨をくすぐるような低くて心地良い声がする。電話ってすごい、と改めて思った。
『いま、もう寝ようかなーと思っとったとこ』
「…まだ10時だよ」
『まあ、そうやけど。明日に備えて。落ち着かんし…』
「忍足も緊張するんだね」
『当たり前やろ、俺かて普通の中学生やねんから』
「普通の中学生はそんな変な眼鏡かけないと思うよ?」
『ちゃんは相変わらず失礼な子やな…』
「でも、そっかじゃあ切った方がいい?」
『ええよ、と話してた方が落ち着くわ。…なんや今日はしおらしいなァ、い
つもはそんな気遣われへんのに』
「何いってんの、あたしはいつだって気遣いまくってるよ」
『よう言うわ』
いつものように少しぞんざいに言うと、快活な笑い声がわたしの耳を打つ。緊張してると言ったけれど、声音はいつもとかわらない色彩だった。目を細めて微笑う顔が目に浮かぶ。毎日のように会っているのに、すぐに会いたくなるのはどうしてなんだろう。これが恋の力なのか、相変わらず強力だ。
「明日、晴れるかなぁ」
『真夏日になるって天気予報で言っとったで。帽子忘れんようにな』
「うん、わかった」
『タオルと飲み物もな』
「うん。忍足こそ忘れ物しないようにしないとでしょ」
『俺はちゃんみたいにうっかりさんやないから大丈夫』
「ははッ、うぜー」
『うぜーって』
普通に笑って言ったら、言葉汚いで!と怒られた。さっきからお母さんみたい。そう思ったので素直に言うと、若干必死な様子で違う、彼氏や!と訴えて来る。知ってるってば。声の調子が面白くて、わたしは声を立てて笑った。
明日の話題だけど、それはいつもと変わらない会話だった。ほんとに緊張してるのかな。いつだって彼は落ち着いて、自分の中を静かに見つめているような人だ。するべきことを的確に把握している。
わたしはひとしきり笑ったあと、小さく息を吐いた。
『?』
「…忍足、」
『ん』
「あした、頑張ってね」
『……ああ』
微笑うような吐息で、彼は頷いた。
わたしは彼の戦う世界のことをあまり知らない。だけど彼が真剣に、全身全霊でたたかっていることは知っていた。3年間たくさん頑張って来たことも、明日が最後の日になるかもしれないこと。これからがなくなる訳じゃないけれど、明日の結果によっては確かに終わってしまうものがあるということ。そして終わってしまうかもしれないものの中に、彼が大切にしていたものが含まれているということも。
だから、頑張って。
わたしが言えるのは、これぐらいだった。あとは、明日。きっとすべてを目に焼き付けよう。忘れっぽいわたしが、一生忘れないように。
「明日、帰りにうちによって晩ご飯食べて行きなよ」
『そうやな、ええかもな』
「お母さんに言っとくね」
『ああ。…ちゃん』
「うん?」
『有り難うな』
「……………うん」
その有り難うの声があんまりにも優しかったので、わたしは少しだけ息を止めてしまった。照れくさくて、じゃああんまり長いと電話料金が大変なことになるからときり出す。彼も頷いて、おやすみと電話を切った。本当は照れくさいながら名残惜しいと思ったけど、それでも仕方がないから終話ボタンを押した。明日すぐ、会えるんだし。
切ったあと小さな画面に表示された通話時間は、ほんの10分足らずだった。それでも胸がいっぱいになって、わたしはまた窓の外を見た。夏の湿気を内包した濃密な闇が星と星の間を埋め尽くしている。数時間後には日が昇って、その闇を照らして朝にするんだろう。そしてその日差しの下で、彼はきっと背筋をまっすぐに伸ばして立つんだ。3年間の努力と誇りを抱えて。
どうか、と、わたしは祈った。どうか、明日、彼のすべてが輝きますように。いいことがありますように。煌めくような大切な一瞬一瞬が、彼に刻まれますように。何に祈っているのか良く分からなかったけれど、それでも祈った。敬虔な信徒か何かのように。輝くような明日と彼のために。
明日は寝坊しないようにしなくちゃいけないから、もう少ししたら眠ろう。
彼のことを想いながら。
そして、
輝ける朝がやってくる