12:熱い吐息
小さな缶だった。度数自体も低く、飲みやすいものをほんの少しだけ。そういうつもりだった。は俺とばかり一緒にいて、飲み会にも行ったことがない。無事に成人もしたことだし、ちょっと今日は飲んでみよか、と言うと、彼女は好奇心に瞳をキラキラさせながら頷いた。それが、夕方の買い出し中のこと。
夕食を食べさせてから、小さなグラスに買ってきた酒を注いで卓に運ぶと、はこわごわ口をつけた。ちなみに、桃のチューハイだ。可愛いにぴったりだろう。
甘くておいしい、でも変な感じ。それがの感想だった。ほんの少しだったこともあり、
はすぐに飲み干してしまった。
そうして異変は、しばらくしてから起こったのである。
まず、の顔が真っ赤になった。とても可愛いが、とにかく赤い。大丈夫か、と尋ねると、なあにと首を傾げる。頬に触れてみると、大変ぽかぽかしていた。
この時点で、彼女が非常に酒に弱いのだということに気付いたが、後の祭りである。
次いで瞳がとろん、としてきたので、眠いのかな、と思った。それならば寝かせてしまえばいい。俺はそう考えて、少しくせのある彼女の髪を優しく撫でる。
「ちゃん、もう今日は眠いか?」
「………どして?」
てっきり、うんねむたい、と頷くだろうと思っていたのだが、不思議そうに尋ね返されて俺はちょっと面喰らった。眠いのではないのだろうか。
頬にかかった髪を半ば無意識に指ではらってやると、はふにゃっと笑顔になる。そして大変嬉しそうにうふふっと声を上げた。か、かわいい…。
「ゆーし、だぁいすき」
………えッ?
俺が可愛い笑顔に骨抜きになったその瞬間に、は唐突に言った。そしてそのまま俺に凭れてギュッと抱き着いてくる。俺は一瞬状況が理解できず、しかしすぐにその事実に気が付いた。
つまり、酔っている。
は、お酒に酔っているのだ。
「ちゃん」
多少焦りながら名前を呼んで肩を優しく叩く。俺の胸元に頬擦りしていたは、不思議そうにこちらを見上げた。頬は紅く上気して、とろりとした黒目がちな瞳が潤んでいる。俺は理性を激しく揺さぶられるのを感じながら、の頭を優しく撫でた。
「ちゃん、お酒弱かったんやな」
「うん、侑士にあたまなでられるの、好き」
「…………そう、なんや」
にこにこしながらは言う。可愛い、ものすごく可愛いが、既に話が通じない。ほんのちょこっとしか飲んでへんのに、なんてお手軽なんや…!
いままで飲み会に行かせていなくて良かった、と俺は心から思っていた。外でこんなことになってはたまったものではない。
「ちゃん、ちょっと……お水飲もうか?」
「………おみず?」
「うん、お水」
はおみず、と繰り返す。が、意味を理解している気配はない。理解しようとはしているようだが、頭が働かないのだろう。…これは本気であかん。
俺はとにかくミネラルウォーターをとってこようと、の体を優しく押して立ち上がろうとした。しかしは、小さな手でぎゅっと俺の服を握りしめている。、と声を掛けると、彼女はぶんぶんと頭を振った。
「やだ!」
「?」
「どこいくの?いっちゃやだ」
「いや、お、お水をな?」
「やだぁ…侑士といっしょにいる…」
な、何やこの可愛い生き物はッ!?
再び理性をぐわんぐわん揺さぶられながら、俺は必死でを宥めようとする。しかしは瞳をウルウルさせて、子猫のように縋って来るのだ。こんなかわいい子を、どうすれば無下に扱えると言うのだろう。
どうにか一度だけ、肩に置いた手にほんの少し力をこめて引きはがそうとする。しかしはやはりイヤイヤと頭を振ってしがみついてきた。
更にあろうことか、可愛い可愛い声でにゃああ、と言った…いや、鳴いたのである。
恐らく「イヤ」という言葉の変化系なのだろう。それは分かる。解るが、未だかつて聞いたことのないその鳴き声に俺は頭を鈍器でぶん殴られたかのような衝撃を受けた。
にゃーって、にゃーって言うたで、この子!
まさか現実で聞くことが出来るだなんて思っていなかった。な、なんでこの家には猫耳があれへんねやッ!!!
信じられないミスに自分を激しく責めながら(ハンズでもドンキでも売っとったのに!)、動揺を押し殺して彼女の頭を撫でる。
「ちゃん、お、お水飲まんと、な?」
優しく優しく語りかけても、はなおイヤイヤする。そして俺が大好きでたまらないとでも言うように胸元に頬擦りをした。様々な葛藤を堪えながらそれでもちゃん、と宥めるように呼ぶと、終いに彼女は涙声になってしまう。
「…?」
「やぁー…」
「な、泣いとるん?」
「どして、はなそうとするの」
「せ、せやから、お水をな」
「あたしの、こと、きらいになっちゃったの」
「そッそんなワケあれへんやろ!?」
「やだ、そんなの、やだぁ…」
完全に酔っ払っているは、俺の話など聞いてはいない。悲しくて堪らなくなってしまったようで、ぐすんぐすんと涙をこぼしはじめた。何や、何なんやこの甘えん坊の子猫ちゃんは、トロか!?いやトロも比較にならないくらい可愛い、この世の終わりかってくらい可愛い……!
俺はだんだんどうでもよくなってきて(いやどうでもよくはない、とりあえず落ち着かせないことにはどうにもならないというだけで、決して理性を放棄したわけではない)、泣きじゃくるをギュッと抱きしめる。それでも泣き止まないので、背中と頭を撫でてやりながら髪にキスをした。
「、泣かんといて。俺ちゃんのこと大好きやからな」
「……、すき…?」
「うん、めっちゃくちゃ好き」
頭の天辺の髪に唇を付けたまま囁くと、ははた、と泣き止んでこちらを見上げる。安心させたくて笑ってみせると、彼女もまたにこぉっと嬉しそうに笑った。ほんの数秒前まで泣いていたのが嘘のような、満面の笑みだ。もう可愛いとかいう次元ではない。そろそろ本気で理性が焼き切れそうだなと頭の隅で思いながら、頬の涙を手のひらで拭ってやる。するとはまた頬擦りするようにその手のひらに頬を寄せた。
「あたしも、侑士だいすき…」
本日二度めの台詞だった。しかし、先程とは違ってしみじみとした、深いため息混じりの言葉だった。まるで心からの呟きのような。
――何という殺し文句だろう。
少なくとも、俺のほんのわずか残った理性を吹き飛ばすには十分すぎる威力だった。
俺はほぼ衝動のまま、淡いピンク色の唇に口づける。酔っているからか、いつもよりずっと熱い口内にこちらも酔ってしまいそうだ。ほんのりと甘いのは桃の酒か、或いは彼女自身なのか。上着の裾から侵入して触れた素肌もやはり熱かった。
が嫌がらないので、耳朶に軽く歯を立ててみる。すると小さく震えて甘やかな息を吐く、その様子に更に煽られて、益々止まらなくなった。
据え膳食わぬは男の恥。にそんなつもりはなかったかもしれないが、抵抗する様子はなくされるがままだ。部屋着のカーディガンを肩から落とすと、ぶかいそれは(ぶかいのは俺のものだからだ)袖を通したままの両腕だけひっかかって背中にぶらさがる。剥き出しになった白い肩に口付けても、やはり嫌がらない。
柔らかい肌の感触を楽しみながら、俺は小さな頭の後ろに手を差し入れた。はすっかり俺に身を預けている。イヤイヤしながら恥ずかしがられるのも可愛いが、素直に身を委ねられるというのも新鮮でいい。お酒に感謝やな、と思いながら、の熱い身体をそっとカーペットの上に横たえる。
はとろけるような色の瞳で、俺を見上げて――――
―――は、いなかった。目を閉じていたのだ。好きにしていいよって事か…!?と一瞬思ったが、ちょっと何かチガう気がする。
というか、このパターンは。
「……?」
恐る恐る呼んでみるが、返事はない。桃色の目蓋も、持ち上がる様子はなかった。
ほんの少し開いた唇からは、甘い吐息というよりはすやすやという健康的な、寝息。
――――要するに、眠っている。
はあああ、と俺は盛大なため息を吐いた。いつも通り過ぎて最早言葉もない。またこのパターンである。いや、こんなうまく行くはずがないとは思ったのだ。
この熱い想いはいったいどうすればいいのだろう、多少途方に暮れながら俺はをベッドへと運ぶ。酒のお陰か、ぐっすり眠っているようだ。
せめて、ちゃんがもうほんのちょっとだけお酒に強ければ……いやッ違う、猫耳を買ってあれば!!眠ってしまったのはもう仕方ないが、大変悔やまれた。
しかしなんにしろ、お酒はもうやめたほうがよさそうだ。ものすごくかわいかったが、心臓が持ちそうもない。
(明日の朝、きっと何にも覚えてへんのやろうな…)
に毛布を掛けてやりながら、とりあえず猫耳を買いに行こう、と俺は心に誓うのだった。