ふと目が覚めた。視界に写るのは見慣れた天井、ではなく、それどころか部屋ですらなかった。ビニールのテントの中にいるようだ。しかも、体がひどく強張っている。
 無意識に手足を伸ばそうとして、腕の中に彼女がいることに気がついた。その刹那、瞬く間に思考が覚醒する。

 そうだ自分達は、嘘みたいな話だが、遭難したのだ――





-7月28日-

1






 救命ボートに乗せられたその後、は堪え兼ねたというように泣き出した。今まで見たことのない泣き方だった。このように命の危機というものを身近に感じたことなど今までなかったのだから、無理もないことである。俺自身も泣きたいぐらいだった。恐らく、同じボートに乗り合わせた面々も同じ気持ちだったであろう。
 あたしたち死んじゃうの、と涙に揺れる声では尋ねかけてくる。指が白くなるぐらい俺のジャージの裾を握り締めて全身で震えている様子が、あまりに痛々しかった。

 正直、これからどうなるのかなどさっぱり分からない。誰にも分かる筈がなかった。しかしどうにか少しでも彼女を落ち着かせようと、俺はその涙で冷えきった両頬に手を伸ばす。同い年とはとても思えないほど柔らかくて丸い、幼い頬を撫でて大丈夫だと言い聞かせた。しゃくりあげる肩を引き寄せて抱き締めると、は小さく嗚咽を漏らす。
 はもともと落ち着きがなくどちらかというと取り乱しやすい方だが、ここまでの恐慌状態に陥っている彼女を見るのははじめてのことだ。むろん自分もひどく不安ではあったが、だけは守らねばならないと強く思った。ていうか、まだキスしかしたことないっちゅーのに死んでたまるか。俺はとじーちゃんばーちゃんになって死ぬまで生きるんや!
 そんな決意のもと宥め続けていると、いつしかは俺の腕の中で眠っていた。泣き疲れたのだろうか。どっちにしろ、眠れる程度には落ち着いたようだ。
 俺は彼女が倒れないように体勢を整えて、深く息を吐いた。周囲を見回すと、同乗者たちは皆神妙な表情をしている。きっと自分も同じような顔をしているに違いなかった。




 ひどい揺れの救命いかだの中で眠れるはずもないと思っていたが、いつのまにか眠っていたようだ。目が覚めたのは、外が明るいからだろう。夜が明けたのだ。
 ――いや、それだけではない。あれほど揺れていたいかだが、揺れていない。時化がおさまったとかそういうレベルでなく、波の揺蕩いを感じないのだ。…つまり。
 俺はを起こさないよう床に横たえると(ちゃんはとっても眠りが深い子やからこれぐらいじゃ起きひん)、いかだの外の様子を窺った。ちなみに他の連中も眠っていたが、俺が動く気配で目を覚ましたようだ。
 外の様子は、俺の予想の通りだった。

「どっかに流れ着いたみたいやな」

 俺が外を眺めてそう言うと、他の奴等も身を乗り出して来る。他の救命いかだも同じく流れ着いているらしく、その見たこともない砂浜にはちらほらとテニス部の面々が出て来ていた。部長連中はすでに現状確認を始めているようだ。そのうち、ひとつひとつのいかだを回ってくるだろう。
 その前に出て行って問題はない筈なので、俺はいまだに眠っている(取り乱してた割りには深く眠っとるなぁ)を起こすべくその小さな肩を揺らした。

ちゃん」

 やっぱり眠りの深いちゃんは、うーんとか唸りながらもなかなか起きてくれない。おうちじゃないのに、良く寝るなぁ…。何度か揺すって名前を呼ぶと、何とか目を開けてくれた。そのまま寝ぼけた様子でおはよう、と言うが、状況がよく分かっていないらしい。「なんで忍足がいるの?」と分かりやすく顔に書いてある。しかし多少ぼんやりした後で周囲を見回すと、おかしいことに気がついたようでガバッと身を起こした。

「あ!…あれ?あ…生きてる?」
「うん、生きとるよ」
「あれ?どーなったの?ていうか朝…?」
「何時かは確認しとらんけど、朝みたいやな。とりあえずどっかに流れ着いたみたいや」
「どっか、って…?」
「わからん。とにかく跡部たちが現状確認しとるみたいやから、外出てみよか」
「うん」

 ちなみに、同乗していた奴等は既にいかだの中には残っていない。俺はの寝癖を手ぐしで整えてやりながら、外へ出た。



 外へ出ると、学校ごとの人数の確認が始まっていた。俺とが氷帝のメンバーに合流すると、跡部が氷帝はこれで全員だなと一人ごちる。どうやら全員無事だったようだ。

「良かった、忍足さんたちも無事だったんですね。先輩が居るから心配してたんですよ」

 鳳が俺たちを見るなり安堵した様に言った。昨夜は他のRの姿は確認できたものの、別々のいかだに乗せられたのである。

「まあ、昨日はずっとちゃんのお守りしとったからな。あん時も一緒やったから何とかなったわ」
「お守りって何、お守りって」
「言葉のまんまの意味だろ」
「向日にはきーてない」

 昨夜の取り乱しぶりはどこへやら、はいつもの調子で下から睨みつけてきた(でもそんな顔もカワイイから全然迫力あらへん)。岳人も同じ様に口を挟んでくる。結構みんな落ち着いているようだ。他の奴等がそういった様子だからこそも落ち着いていられるのだろう。この神経の図太い連中に感謝しなければならない。
 それでもやはり多少は不安なのだろう、は俺の手をしっかりと両手で掴んでいる。こんな状況とはいえ、が俺に全幅の信頼を寄せていることが嬉しかった。

 そうこうしているうちに、どうやら他校の人数確認も終わったらしい。生徒と、それから事情で同乗していた船長の娘とその友人――つまり、子供は全員が無事にそろっている。しかし、大人たち、つまり顧問や船舶の乗組員たちの姿はどこにも無かった。

「おそらくここは、当初から俺たちが合宿を行う予定だった島だろう。――残念ながら、無人島だが」

 少しの間考え込むように黙っていた跡部が口を開く。

「監督たちがボートに乗ったのは確認がとれている。海流から考えても、この島やその周辺に流れ着いている筈だ。島の内部には合宿予定地のロッジがある。この島は榊監督の所有の島だ、同じくこの島に漂着していれば監督たちもそこへ向かうだろう」
「そうか、それでは俺たちもそこへ向かえば先生方と合流できるかもしれないんだな?」
「そういうことだ」

 跡部の説明に、立海の副部長である真田が確認するように尋ねる。跡部が頷き返すと、真田の横に居た幸村が常と変わらぬ笑顔で言った。

「じゃあ、早速向かった方がいいだろうね」
「ああ。俺が先導するから、それぞれ学校ごとにまとまって付いてこい。…はぐれるんじゃねーぞ」

 最後の台詞は、主に俺たちにむけて――っていうか絶対ちゃんにやろうけど――放たれたものだった。気付きもしないのかわりに、俺が見とくから平気だと言うように頷いておく。
 それには跡部からの反応は特になかった。失礼な奴や。どうも跡部は、を馬鹿にしているフシがある。確かにちょっとおばかさんかもしれへんけど、そこまでヒドくないっちゅうんじゃ。

 俺のひそかな憤慨などどこ吹く風で、皆は移動し始めた。俺の手を未だ掴んだままのを連れて、俺もそれに倣う。しかし、島のどこに流れついたかも分からないのに、合宿場まで無事にたどり着けるのだろうか。当たり前のように跡部は、一応道らしき道を歩いているが。
 と、そのとき、隣りを歩くちゃんが俺のジャージをくいくい引っ張った。

「ねえねえ」
「ん?どないした?」
「こんなときでも跡部が仕切るのは決定事項なんだね」
「ああ、そうやなぁ確かに。ま、それでまとまっとるからええんやろうけど」
「うん…みんな何かすごいね、すごい落ち着いてるね…忍足もだけど」
「そーか?ちゃんも落ち着いてるみたいに見えるけど、違うん?」

 ちゃんはほんの少し声をひそめるようにして周りの奴等の様子を伺っていた。周りは皆普通に談笑していて、確かに非常事態だとは思えない落ち着きだ。しかしも今は表面上、さほど取り乱しているようには見えていない。さすがにいつもの元気はないが。
 少しだけ乱れた髪を直してやると(後でちゃんと梳いたほうがよさそうや)、は平静そうに見えた表情を少しだけ歪ませた。

「ちょっとはましだけど、でも、こわいもん…これで先生たちいなかったら、どうするの?大丈夫なのかなぁ…」

 言葉にすると不安が増したらしく、その声は少しだけ震えていた。泣き出したいのを堪えているのだろう。そりゃそうや、怖いよなぁ。俺は不安がるちゃんが可哀相で(そしてものすごく可愛くて)、その小さな頭を優しく撫でた。

「大丈夫やって、こんだけ人数おるんやから。何とかなるって」
「そうかなぁ」
「ていうか、には俺がついてるやろ?」
「うん、だからよけいにふあん…」
「…ちゃん?」
「じょーだんだよ。…ありがと」

 甘えるように、ちょっと舌ったらずにお礼を言っては笑った。かッ、可愛え…!こんなに素直なちゃんめっちゃ久し振りや。非常事態ってのもなかなか、ええもんやなァ…。不謹慎ながらも、俺はそう思った。
 しかしそんなささやかな幸せに浸っている俺を、不躾な声が遮ったのだ。

「忍足さん、ちょっと」

 振り返ると、青学の桃城が立っていた。こいつかいな。何の用やねん。俺といっしょにそちらを見たも、うわッモモシロくんだ!とまるで虫か何かが出たかのように呟く。
 桃城のほうはというと、俺たちの反応など気にもせずに隣りまでやって来た。ほんまに何の用やねん。

「…何やねん」
「船にいるときから気になってたんスけど、その人って忍足さんの彼女ッスか?」
「…そうやけど」
「へェー、やっぱそうなんスね!でも何で彼女さんも船に乗ってたんですか?マ ネージャーとか?」
「見送りや、見送り。マネジャーと違う。ホンマは俺を合宿場まで見送って、こ の子はそのまま船で帰る予定やったんや」

 俺のあからさまに迷惑そうな表情を綺麗に無視して、桃城はフツーに親しげに尋ねてきた。ていうかちゃんの半径2m以内に近づくなや…!氷帝の奴らは俺とのラブラブっぷりをよく知っとるから構へんけど、他校はそうはいかない。パッと見でちゃんに一目惚れでもしてしまったら、無防備な姿に欲情してしまったら…考えただけでも恐ろしい。できるだけ接触を避けさせなければ。
 しかし目の前の男に立ち去る気配はない。これは適当に答えてさっさと立ち去らせるのが吉、だ。そんなことお前に関係ないやろと表情に示しつつ答えてやると、アリなようで冷静に考えたらあんまりアリっぽくない説明に桃城は微妙な表情をした。他にそんな例がないので当たり前だ。…でもそういう設定なんやから、仕方あらへんやん。

「あー、なるほど。…それって、いいんスか?」
「監督が許可出したからな、別にええんやろ」
「ふーん。そんなもんなんすね…彼女さん、名前は?3年ですか?」

 な、名前?何で名前聞く必要があるねん。まさかこいつ、あわよくばとか思ってるん違うやろな…!俺の心は更に猜疑心にかられた。ハッキリ言って、に関しては世界中の男が敵なのだ。

「いや、別に名前きかんでもええやろ」
「何でッスか?別にいいじゃないですか」
「いやいやいや、よくないやろ。自分がうちの子に変な気ィ起こさんとも限らんの やから」
「起こしませんって…」

 俺の疑いの目に、桃城は呆れたように言う。ホンマっぽい、けど演技かもしれへん…。一度疑わしく思ってしまうと信じるのはなかなか難しいもので、俺はしばし悩んだ。
 そんな俺のジャージを、ちゃんがまたくいくいひっぱる。いままでは(には珍しく)口も出さずに静かにしていたが、流石にやりすぎだと思ったのだろう。ああ、にまで呆れられてしまった(でもそんな顔も、以下略)。

「ちょっと忍足、変質者じゃないんだからさ」
「ほら、彼女さんもそう言ってるし」
「…ホンマに変な気ないんやな?」
「ないッスないッス」

 確かに害はなさそうな表情で、桃城は軽く頷いた。まあしゃーない、こうなったら俺の可愛い彼女を紹介してやろう。よう考えたら関東大会で俺らに勝った男やしな。

「この子はちゃん言うねん、天使みたいな名前やろ。俺と同じ3年でクラスも一緒、ちなみにこないだ、付き合いだして一周年記念日を迎えたとこや!」
「…はぁ」

 勢い込んだ俺の言葉に、目の前の男は何言ってんだこの人、という顔をした(別に何とでも思えばええわ)。何を言えばいいのか分からないようで、とりあえずぬるい感じに頷いている。さて、これで引いてくれたらええねんけど。
 しかし、桃城が次の反応をするまえに、反対方向から不思議そうな声が上がった。

「あれ、一年たったっけ?付き合いだしたのいつだったっけ?」
「え…!、知らんかったん!?」
「…、いつだっけ」
「……ちゃん!?」
「や、だって日にちまで覚えてないよそんな細かいことさァ、夏休みだったのは覚えてるけど」
「うん、でも、去年のことやで…?」
「覚えてないもんは仕方ないじゃん。てゆーか一周年記念日とかちょっと、ねーよ」
「え?な、ないって?」
「ナイもんは、ナイ」

 ないって、ないって、何やの?おにーさんに教えてくれへんかなちゃん、何でそんなすんごく嫌そうな顔してるん?
 「ねーよ」というちょっとキタナイ言葉遣いを注意するのも忘れて俺はそうまくしたてようとした…けれど(だってナイって…ナイって)桃城の存在を思い出して何とか飲み込んだ。見ると桃城はすっかり呆れた表情をしている。俺だって望んでこんな展開に持ってきたわけじゃあ。俺たち超ラブラブです、みたいな感じにしようと思っとったのに!

「と、とりあえず、その話は後でしよか」
「うん、後でしなくてもいーよ別に」
「(ぐッ…)…まあ、こんな感じや。分かったか桃城」
「はぁ、忍足さんが実はクールじゃなかったっつーことは良く分かりました」
「いやそこはええねん別に」
「まあ乾先輩にでもデータ提供しとくッス」
「いやいやだからそれはええって」
「じゃあそろそろ合宿場着くみたいなんで、忍足さん、…さん、また後で」

 前方にロッジらしきものが見え出したのをいいことに、その男は言うだけ言っていかにも中学生らしく軽やかに駆けていった。さっさと追い払いたかったわけやから別にええねんけど、ああ。

「あかん…変な尾ひれ付いたら最悪や〜…」
「まあ、どうせそのうち実はアホですってバレるって。いいじゃん」
「……………ちゃんは、その実はアホのゲーマーオタクの彼女ってことになるんやで?」
「うん、別にいーもん。その通りだし」
「えッ…」
「なに?」
「ううん、何でもない…」

 何だか今の発言に愛を感じたのは気のせいだろうか。ついきゅんとしてしまった。すぐ隣りの小さな体を思いっきり抱き締めたい衝動にかられたが、我慢して繋いでいる手を握り直す。はもうすっかり普段の調子に戻って、大分近付いてきた合宿場らしき場所を指差してあそこかなぁ、とか言っていた。
 そういえば不安は少しは薄まったのか、強張っていた表情も和らいでいる。さっきの容赦のない切り返しも考えてみれば元気が出た証拠だ。俺は少し安堵した。状況は一切改善されていないが、気落ちしているのとそうでないのとではかなり違う。元気さえあれば、最悪の事態に陥ることはないだろう。

 そうしているうちに、合宿場に到着した。見る限りではロッジのあるキャンプ場のようだ。人の気配はないが、ロッジなどの建物は割と新しそうに見えた。
 まず俺たちは、広場のような開けた場所に集まった。学校ごとに人数がそろっていることを確認してから、それぞれ合宿場内に先生達がいないか確認しに行く。
 ――しかし、合宿場内にも大人達の姿はなかった。


「先生たち、いないんだ…」
「ああ、けどまだ着いてないだけかもしれへんし」
「うん、そうだよね…」

 そう言いながらも、何となく俺は大人たちと合流することができる気がしなかった。
 全く根拠のない勘だったが、そう思ったのだ。