彼の一日はまず、彼女の寝顔を眺めて幸せを噛み締めることから始まる。
















きょうもいいてんき


















 彼、忍足侑士にとって、彼女、はまさに天使のような存在だった。

 彼以外の人間にとっては、普通の女の子にしか見えないであろう。しかし忍足は『愛情』という些か都合の良いフィルターを備えていた。そのフィルターを通せばたとえ口が悪くてもどこかズレていても、我儘放題でも気分屋でも、散々罵られようともいとおしくしか思えないのである。
 本日も彼の愛情フィルターは絶賛稼働中だった。

 故に彼にとって彼女は天使、或いはお姫様だ。そんな可愛い可愛い彼女が、隣りで眠っている。なんという幸せだろう、と彼は胸がいっぱいになった。眠る彼女の額へ勝手におはようのキスをする。起きてからしようとすると鬱陶しがられるので眠っている時にすることにしていた。
 更に忍足は「おはようハニー」と彼女が聞いていたら気持ち悪いと一刀両断されるであろう台詞を吐いた。眠っている間はやりたい放題である。
 いくら甘い台詞を吐こうが彼女が聞いていなければ意味がない筈なのだが、すべては忍足の自己満足であった。

 ――つけ加えておくと、これはほぼ毎日繰り広げられている光景である。



 が忍足の部屋で一週間の半分以上を過ごすようになってからもう数年が経とうとしていた。
 2人が初めて同じ夜を過ごしてから、彼女は頻繁にこの部屋を訪れるようになった。それは徹夜で遊ぼうだとか、大半が忍足の期待外れな理由が多かったのだがそれでも大抵は同じベッドで眠った。そういった行為があろうがなかろうが、である。それを繰り返すうちに彼の部屋には彼女の荷物が少しずつ増えていった。 デートに出掛けてそのまま忍足の部屋に2人で帰って来るということもしばしばで、現在のような半同棲状態に至ったのである。
 それは高校時代に端を発し、共に大学へ進学しても変わることはなかった。そうしてほぼ毎日、忍足は彼女の寝顔を眺めている、という訳である。
 飽きないのかという質問は、彼にとって愚問でしかない。繰り返すが、彼は強力な愛情フィルターを所有している。つまり愛があるので、彼女は何度見ても新鮮で可愛らしいのだ。
 もっと分かりやすく表現すると、彼らは世間で言うところのバカップルであった。



 思う存分いとしい姫君の眠る姿を堪能したあと、忍足はようやく身を起こした。
 対しては一向に目覚める気配がないのだが、忍足にとってはいつものことである。かまわずベッドから降りると朝食の準備の為に台所へ向かった。

 忍足家では――2人はまだ恋人同士であって、『忍足家』という呼称は正しくないのだが、ここでは『忍足家』と表記する――その殆どの家事を忍足が請け負っていた。
 以前はも家事を手伝っていたのだが、様々な理由により現在のような状態になっている。むろん、この部屋が忍足のものであるからというのも要因の一つだが、もっとも大きい理由は2人の能力差にあった。

 以前には、が朝ご飯や晩ご飯の用意をしたこともあった。
 しかし悲しいかな彼女は大変不器用で、用意に時間が掛かり過ぎた。手付きも覚束なく、忍足は隣りで見ていて何度となく肝を冷やす思いを味わったのである。結局彼女には包丁使用禁止令が施行され、そうして料理全般は忍足の担当になった。

 また、が洗濯をしたこともあった。
 しかし彼女は衣類のタグ表示がわからなかった。ドライ、手洗いと服によって洗剤も洗濯機のモードも切替えねばならない。それが彼女には難解だったのだ。もうわかんない、と自棄を起こした彼女が投げた匙を忍足が拾い、洗濯もまた彼の係となった。

 また、が掃除をしたこともあった。
 しかし彼女は大雑把であった。対して忍足は几帳面である。その二つの事実から、彼女の掃除の仕方に彼が否やを唱えるという結果を想像するのは容易い。結果、文句言うなら侑士がやってよとはヘソを曲げてしまい、掃除もまた忍足の担当となった。
 こうして忍足家の家事全般は、ほぼ忍足ひとりで担われているというわけだ。


 ならばは家事を全くしないのか、と言えば、そうでもない。なりに、出来得る限りの手伝いをしている。
 具体的な仕事を挙げると、食事の準備では食器や箸を並べたり鍋の番をしたり、浴槽掃除をしたり、洗濯物をたたんだりする係などがそうである。しかし、これでは小学生のお手伝いと大差ない。この程度の手伝いでは忍足の負担は減らないように感じるのだが、結果を考えると似たようなものであった。忍足は人より器用で、は人より不器用なのだ。公平に分担すると却って忍足の手間が増すことになる。つまりは今の家事分担が最善なのであった。
 そして彼がそれを煩わしく感じているのならば問題だが、そもそも世話焼きの忍足である。のこんな手間のかかるところですら、彼は心から愛していた。曰く「まったくちゃんは俺がおらんと何にも出来へんなぁ」というところらしい。

 の方はといえば、器用な忍足に素直に感心しつつ、同時に楽できてラッキー、と思っていた。あくまでその程度だ。彼女はあまり物事を深く考えない性格である。むろん忍足に感謝してはいたが、彼の行動が自分への深い(同時に少し捻じ曲がった)愛情に因るものだとは欠片も気づいていなかった。


 しかしベクトルの方向性に微妙な相違はあれど、相思相愛ゆえに彼らはこの生活に幸せを感じていた。
 今日も忍足はの為に朝ご飯を用意し、は良い匂いにやがて眼を覚ます。いつもどおりの、忍足家の朝の風景だった。





 忍足が人の気配に振り返ると、ちょうどが起きたところのようだった。
 おはようと台所から声をかけると、はうん、と眠そうに頷く。頭は半分眠っているようだ。

「あさごはんなに?」
「マフィン。食べるやろ」
「…うん」

 半分眠っていても、食べ物の認識は出来るらしかった。食事の準備だけはバッチリとばかりに、着替えもせず彼女はテーブルの前に正座する。忍足は小さく笑った。

ちゃん、飲み物何がええ?」
「んー…ココア…」
「はいはい」

 彼はお姫さまの要望通りにココアを作ると、彼女のお気に入りのマグカップに入れて持って行ってやる。は甘い香りに顔を綻ばせて手を伸ばした。そして子供のようにマグカップを両手で抱え、息を吹き掛けながらちびちびと飲む。猫舌なのである。
 その姿は忍足には、やはり天使にしか見えない。何度も言うが、彼には愛情と云うある意味最強のフィルターを所有している。

「ふーふーしたろか?」
「いい」
「あ、そう…」

 朝食の準備が途中であるのにも関わらず、忍足はわざわざ隣りに座ってがココアを飲む姿を眺めていた。頬杖までついている。
 客観的に見ると、何をするでもなくただを見てニコニコしている忍足の姿は異様だった。しかしまだまだ寝ぼけているは全く意に介していない。

「美味いか?」
「うん」

 些かぼんやりしながらも、は頷いた。その仕草が普段より素直であるのも、忍足の機嫌を押し上げる要因のひとつである。過去と参照すれば、は食べ物がからむと忽ち素直になりこれもその一環であるということがわかるのだが、色ボケ真っ盛りの忍足にそれが出来よう筈もなかった。
 そのまま忍足が眺めていると、目が覚めてきたはやっと忍足がいつまでもそこにいることの不自然に気付いたらしい。怪訝そうに目をあげて、忍足の様子を伺った。

「…そこで何してんの?」
ちゃんの可愛い顔みてんねん」
「は?」

 忍足の素っ頓狂な回答に、は顔をしかめる。きもいんですけど、と冷たく言うが、忍足はは照れ屋さんやなぁ〜ともっとニコニコした。は正直内心で引いたが、眠くてだるいのといつものことなのでどうでもよくなる。罵るのも突っ込むのも、気力が要るのだ。

「ていうか、いいの、火付いてるんじゃないの」

 話題を変えるのがいちばん面倒くさくない、彼女はそう判断した。案の定、忍足はそうやった!と慌てた様子で台所へすっとんで行く。悲鳴は聞こえなかったので、今日の野菜スープも無事に楽しめそうである。
 は小さくため息を吐いて、こんどこそゆっくりとココアを味わった。リモコンでテレビの電源を入れて、いつものニュース番組にチャンネルを合わせる。いつも通りの朝が始まろうとしていた。
 台所からは、マフィンを焼くいい匂いがする。きっともうすぐ、彼のお手製スープと、大好きなお店のマフィンにとろけたマーガリンが乗せられて運ばれて来るだろう。想像するとの心は踊った。



 ふと見上げた窓の外は晴天。今日も、いい天気だ。