んぽぽ

 わたしの彼は妙にお菓子を作るのが上手い。…ということに最近気づいたんだけど、お料理が上手いのはともかくなんでお菓子作りが上手いんだろう。ていうか結構変じゃないか。だって本人べつに甘党とかじゃないのに(むしろあんまり食べない方なのに)。そう思って、まどろっこしいから直接聞いてみた。
「ねえ、侑士は将来パティシエになりたいの?」
「…は?」
「おうちは継がないの?」
「いや…ちょっとまってちゃん、パティシエてどこから出てきたん」
「だって、お菓子すごい作れるじゃん。こんな男子高校生いないよパティシエ志望以外」
 現にいまだってスコーンを作っている。強請ってみたら普通に作りはじめたのだ。作り方も知っているらしい。もうパティシエを目指しているとしか思えない。
「や、これはな」
「なんでパティシエになろうと思ったの?」
「…あんな、俺はべつにパティシエになろうなんて思てへんで」
「えーじゃあなんで」
「だからこれはな、ちゃんが喜ぶだろうと思って」
「え」
「そう思って頑張って練習したというわけです」
「…そうなんだ」
 なんだそれちょっとうれしいじゃないか、と思っていると、奴は所謂どや顔になって言った。俺って理想の彼氏やろ。いつものことだけどいろいろ台なしだ。どうして大人しくときめかせてくれないんだろう。侑士は扱いが悪いとしょっちゅうブツブツ言っているけれど、自分にも責任があることに気がつくべきだと思う。
 (でもまあ始めてみたらこれが面白くてなあ)(もうホントにパティシエになれば?)





「…、……、ちゃん」
「なに!いまいそがしいの!!」
「それ、地図、反対向きやないかな…」
「……」
「……」
「わざとしてたの!それくらい知ってたから!」
「……」
「わかってたから!!」
「…そう」
 (わかったうえでやってたんだから!)(うんわかったわかった、そうやんなあー)



きよ

 なんだか、食べられそうな、気がする。
 彼の夜と同じ色の髪がわたしの頬にかかってくすぐったい。ほしいものはなんなんだろう、とぼんやり考えながら、肩越しに窓の外を眺めた。彼の腕の中にいるかぎり、怖いものなんてない。だからただ不思議なけだ。彼はこれ以上、何が足りないって言うんだろう。わたしとわたしの持ってるものはぜんぶここにあるのに。
 彼のてのひらはとてもあつい。声もあつい。いつもは凪いで静かな眸も、こんな夜にはとてもとても、あつい。
 (そんなに心配しなくたって、わたしはずっとここにいるのに)



がみ

 ねむい!
  ねたらあかん
 なんで
  授業中やん
 わかんないもん
  あとでジックリ個人授業したるから
 き も い
  なんでそないな大きい字で書くん?
 ごめんきもくて
  傷つくやん
 ごめんきもくて
  ていうかこれ俺のノートやけど
 そーだね

「そーだね、やなくて」
「しー!じゅぎょうちゅう!」
「あ、ああ…すまん」

  あれ?なんか釈然とせえへんのやけど
 なんてよむのこれ↑
  あれ?なんかしゃくぜんとせえへんのやけど
 あー気のせいじゃない?
  愛が感じられへん…
 なにいってんの?
  冷たいわぁ
 こうやってあんたのノートに字かいてあげてるじゃん
  え?これ愛やったん?
 そーそー
  ほんまに?
 うん

「…だって、」
 そこで漸くは顔を上げると、悪戯っぽい瞳でこちらを見た。小さな小さな声で囁く。
「なんか交換日記みたいじゃない?」
 一度してみたかったんだ。そう続けてはにかむと、可愛らしい頬がピンクに染まった。
 (あーかわいいめっちゃかわいい、もう授業とかどうでもええから早く終われ!)



うめい

 彼女の真っ黒な瞳がこちらを見上げている。そこには信頼と思慕と少しの不安、矛盾するような安堵が宿っていた。その虹彩の黒は暗闇の色ではなく、凶祓の清らなる漆黒だ。赤ん坊の涙に濡れた睫毛のように、潔癖な少女神の髪のように、過ちを一度たりとも許さない色彩なのだとそう思っていた。思っていたというのに。
 彼女はそのちいさな指でこの黒い右手を持ち上げて微笑むのだ。唇を寄せ頬を寄せ、この世でもっともいとおしいのだと言葉もなく慈しむのだ。平生とかわらぬ甘い声で名前を呼ぶ、眩暈がした。鈴を転がすような少女の声。しどけない頬、幼いままのたましい、それはただ自分がそう思おうとしていただけなのかもしれなかった。

 丸い瞳が微笑みのかたちをつくる。あの日夕暮れの教室で蹲って涙をこらえていた瞳。力を失わないしなやかな命。そのとき差し出したのもそういえばこの右手であったのだと、左手すらもささげながら漸く思い出した。
 (そしてその時、俺の心は完全にこの命に捕らわれたのだ)