みだ

 のまるい瞳から、ぼろりと透明な雫がこぼれ落ちた。細い肩が嗚咽に震える。みるみるうちに濡れていく頬をあわてて指で拭うが、とても追いつきそうもなかった。たまらなくなって抱きしめると、は胸元にしがみつく。そして堪えていたものがあふれたかのように声を上げて泣いた。

 泣きつづける彼女の頬を両手で包んで顔を上げさせる。真っ赤に染まった鼻がかわいそうでとてもかわいらしい。唇が触れそうなほど近くで名前を呼んだ。は泣き顔も悲しむ顔もとびきり可愛いが、やはり笑顔が一番なのだ。いつだって楽しい気分で笑っていてほしいに決まっている。
「俺がちゃんのこと嫌いになるはずあれへんやろ?」
「…ほん、と?」
「あたりまえやろ。より大事な人間なんかおれへんもん。それともが俺のこと嫌いなんか?」
 軽い調子で尋ねると、はぶんぶんと大きく首を振る。いますぐにもその柔らかな唇を塞いで吐息を奪ってしまいたい衝動を堪えながら、俺は笑ってみせた。
「せやったら、なんも心配することなんかあれへん。な?」
「……うん」
 瞳に涙を湛えながらが頷く。目尻や頬に口づけて涙のあとを拭ってやると、彼女は小さく息を吐いて肩を震わせた。先ほどまでの悲しみにくれた吐息ではない。熱を孕んだそれに、今度は衝動を抑えることなく唇にも口付ける。
 いつも甘い唇は、涙の味がした。
 (どっかいっちゃやだ、息を吐く合間、酸欠に喘ぎながら彼女が言った。どこにもいかせないのはこちらの方だ。たとえ同じように泣いて、拒まれる日が来たとしても)



おい

 お風呂上りに、いつもみたいに侑士に髪を拭いてもらっていたら、ええなあ…としみじみ呟く声がした。もちろん侑士だ。
「どうしたの?」
「いや、シャンプーのにおいがな」
「ああ、いいにおいだよね」
「うんそうなんやけど、ていうかな」
「……なに?」
 優しい手つきで髪を拭いていた手が止まる。顔を上げてバスタオルをめくると、なんともいえない表情でこちらを見ている彼と目があった。うわあもう嫌な予感しかしない。
「俺も同じシャンプーやからふたりでおんなじにおいなワケやん。それってめっちゃ興奮す」
「もういい止めて聞きたくない!」
 (このうえこれからそれ以外のにおいもまぐわっ)(黙 れ って言ってんの!!!!!)



すむ

 初めは、ただ趣味が合ってよく話をするというだけだった。けれど彼女はとてもおっちょこちょいで、危なっかしかった。分かり易すぎるぐらいに素直なのがとても可愛くて、世話を焼いたのだ。
 数学の宿題が分からないと泣きついて来た彼女に、懇切丁寧に解に至るまでの過程を教えた。慌てん坊の思考を落ち着かせさえすれば、分からないわけではないのだ。先回りして教えてやると、あれほど出来なかったのが嘘のように簡単に答えが出た。
 彼女はそれはそれは喜んだ。嬉しいと言って笑った。
 そして良く出来ました、と兄のような気分でその柔らかい髪を撫でてやると、予想に反して、誇らしげな満面の笑みがはにかむようなそれに変わったのだ。俺は目を瞠った。
「…ありがとう」
 ほんの少し抑えた、鈴を転がしたような声だ。幼い頬を染めて、少女はこの上なく愛らしく微笑んだ。決して忘れはしない、まだ出会ってから数ヶ月も経たない春の日の出来事だった。
 (彼女の心のすべてが欲しいのだと気がつくあの夕暮れまでには、もう数ヶ月を要する。されど確かにこれがその始まりだったのだ)





「前から聞きたかったんだけどさ」
「何や」
「おまえの何が好きなの?」
「はァ?何言うてんねん」
「だってよォ、お前すっげえ惚れ込んでるけど特別いい女じゃねえじゃん。不細工でもねえけど」
「おッッ前喧嘩売っとるんか!?売っとるよな!!??」
「売ってねーよ純粋に疑問なんだよ」
「その目はフシアナかこのオカッパ!!ちゃんみたいに可愛い子ほかにおれへんやろ!!」
「いや、いるって」
「おれへんわッ!!!」
「(声デケーな…)つうかお前いつもめちゃくちゃ罵られてるだろ、それでいいのかよ」
「これやから素人はアカンぜんぜん分かってへんわ。わからんでええけど」
「…なんだよ」
ちゃんのあれは照れ隠しで愛情の裏返しや。ちゃんは実はめっちゃ素直やねん」
「けど色気もねーじゃん。…ああ、そういうのの方が好きなんだったな」
「…………へんな性癖あるみたいな言い方するなや」
「事実だろ」
「お前なあ好き放題言いさらしやがって!!はなァああみえて夜は子猫ちゃんやねん!!!寂しがりやの天使なんや!!エロエロやっちゅーねん!!!!!!!」

 半分はハッキリ言って勢いだった。半分は勿論本気である。そしてここは正レギュラー用の部室で、他の連中はまだ来ていない。その油断が俺を叫ばせたに違いなかった。まさかドアの外に当の本人がいただなんて、ちょっと用事があって俺にわざわざ会いに来てくれていたなんて、そして会話を丸々聞かれてしまっただなんて、思いもしなかったのだ。
 (バァン!!)(ちゃん!!??)(この…ど変態!すけべ!きもちわるい!最ッ低!!!)(ああああちゃんちょっと待ッ…ああああ〜!!)(アホだな…)



ばら

 いつから彼女はこんなふうに、自分以外のものの前で笑顔を振り撒いていたのだろう。出会った時にはすでに十数年を経ていたのだ。過去を取り出して眺めることは出来ても、触れることは生涯叶わない。同じ不満を並べた彼女が幼い頬を膨らませても、俺のそれと彼女のそれは全く違うものであった。根の異なる梢が同じ軌跡を描くことはない。
 時に歯痒いその拙さに彩られ、微睡んでいた美しい土壌に丁寧に種を蒔いたのだ。光と水と言葉とを与えるたび緑は芽吹き拡がって、やがては森になった。森は土壌を固め守り、水を湛えて礎を構築する。どれだけ重ねても尽きない執着に、幼い緑が気付くことはない。

 ただこの手のひら以外を知らぬようにと、裡の声のまま帳で覆い隠したのだ。梢は帳と知らず、それを宇宙だと信じるのだろう。彼女がこの黒い手に触れて笑うように。
 (それでも、彼女がこの腕のなかにいるのならば)