んぷ

「きもちわるい」
 ちいさなちいさなかすれた声が聞こえた。俺は布団に埋もれる彼女の顔を覗き込む。
「吐きそうか?」
 尋ねると、彼女はいまにも泣き出しそうな表情で首を振る。吐き気はないが気持ち悪い、ということなのだろう。汗で額に張り付いた前髪を指ではらってやる。真冬だというのに、その額は火が付いたように熱い。
ちゃん、また熱上がってきたかもなぁ」
 髪を梳きながら言うと、は不安そうに見上げて来た。普段元気一杯な分、寝込んでしまうと途端に弱気になる彼女がとてもかわいい。苦しいのだろう、熱に瞳を潤ませる様子が不憫でならなかった。かわいそうに、俺が代わってあげられたら、どれだけ。
「大丈夫、すぐよくなるからな。さっきお薬のんだやろ?」
 泣きそうな表情のままこくんと頷くちいさな頭。耳の下に手を差し入れて唇のすぐ隣にキスをした。の体は、生きている証のように熱い。頭が働かず、ぼんやりと俺を見上げたその頭をもう一度撫でて、ズレた布団を首元までかけ直す。彼女は少しだけ安心したような表情で俺の手を握りしめた。
 (ちいさな手を握り返す、せめて夢が穏やかであるように)



ゆう

 何があかんかったんや。
 視界が揺らぐような感覚の中で、俺はただひたすら考えていた。いま流行りの病でないからといくらか油断していたのか、まんまと彼女の風邪を貰ってしまったようだ。寝込むのなんて何年ぶりかもわからない。鍛えているから大丈夫、というのも、案外当てにならないらしい。
 しかし、目下の心配事は看病しようと張り切る彼女のことだった。俺がおらん間におかしな事して、怪我せんとええけど…
 と思っていたら、ちょうど良く彼女が帰ってきた。おかゆを作ると言ってきかない彼女を、作り方がわからないだろうということと、一人で包丁を使わない約束をしていることで説き伏せてコンビニに行かせたのである。おかゆなど、自分が食べる分にはインスタントで十分だ。
「侑士ただいま、すぐ用意するね!」
 やっぱり妙に張り切った彼女の声がキッチンから飛んで来る。ああ、心配だ。何か声をかけたかったが、喉の調子がすこぶる悪いため断念した。ハラハラしながら待っていると、お盆にお椀とスプーンを乗せてがこちらへやって来る。ひっくり返しはしないかとドキドキしたが、何とか何事もなくベッドサイドへたどり着いた。
「インスタントでごめんね」
 申し訳なさそうなかわいい顔でが謝るので、安心させようと笑ってやる。もにっこりと笑顔になって、おかゆとスプーンを手に取った。あれ、ま、まさか、これは。
「食べさせてあげる」
 夢じゃないかと思った。
「はい、」
 しかし夢ではないらしい、がおかゆをすくってスプーンを差し出して来る。俺は口を開けながら思った。もう、一生治らなくていい。
 (夢のシチュエーションが叶う日が来るなんて、神様!)



ーじゅ

 の手ずからおかゆを食べ薬を飲むと、眠気が襲って来た。薬が効いてきたのだろう、と思いながらまどろみに身を任せようとしていると、軽やかな声に名前を呼ばれる。見ると、少女が湯気の上がるマグカップをふたつ持って、ベッドの横にぺたんと座り込むところだった。
「起きれる?寝る前にこれのんで、はちみつれもん。インスタントのだけど…」
 俺が頷いて体を少し起こすと、は俺の口元へマグカップを差し出した。受け取って口に含む。インスタントの味には違いないが、安心する甘さだ。
「おいしそうだったから、自分のぶんも作っちゃった」
 へへ、と悪戯っ子のように笑う彼女に胸がじーんと熱くなる。ほんまに俺治らんでもええわ…。ありがとうな、とお礼を言うと、思ったよりもかすれた音しか鳴らない。それを聞いて、は心配そうな顔をした。
「のどいたい?」
 平気だと答えたが、しゃべっちゃだめ、と怒られてしまう。平気やって言うてるのに。
「平気やって。それよりちゃん、今日はもう家帰り」
「やだ」
 かすれた声で宥めるように言うと、彼女は唇を尖らせる。せやけど、また風邪引いたら大変やろ。そう続けようとしたが、不意に彼女が手を伸ばして肩に触れ、その上頬に柔らかい感触が落ちてきたので黙ってしまった。柔らかい感触の正体は彼女のピンク色の、ちいさな唇の感触だった。
「ゆうし、声、ガラガラ」
 そのまま頬の直ぐそばで、少女の甘やかな声がする。かわいそう、と呟いて、少女は俺の首に抱きついた。柔らかいちいさな手が首筋と髪に触れている。俺が動けないでいると、しかし彼女は俺の手からマグカップをするりと抜き取りながらあっけなく離れていく。
「はちみつれもん、もういい?」
 何とか頷くと、はベッドのそばまで持ってきてあったちゃぶ台にマグカップを置く。
「侑士、寝ていーよ」
 妙にうれしそうに言われて、ただでさえ体調が悪いというのにときめきすぎて死んでしまいそうになった。というか、さっきの、なんや。は俺の動揺などどこ吹く風で、自分の蜂蜜レモンをおいしそうに飲む。
 きょうはずーっとここにいてあげる、とにっこりした彼女がどこか楽しそうなのは、俺の気の所為なのだろうか。
 (だから、さっきのほっぺちゅーはいったいどういう)(ていうかこんなんで寝れるわけあれへんやん…!!)



もん

 なんだか、退屈になってきてしまった。自分のぶんの蜂蜜レモンを飲み終えて、彼の寝顔を見ながらそう思った。わたしなんかよりずっと元気そうだけれど、声がびっくりするくらい嗄れていてかわいそうだ。そもそも、わたしの風邪を貰っちゃうなんて、疲れていたのかな。
 でも、彼のお世話をするのは実ははじめてかもしれなくて張り切ってしまった。変なひとだけど、しっかりしていていつもおかあさんみたいだから、弱っている姿ってすごく新鮮だ。ちょっとかわいいかもなんて思ったりして、彼は体調が悪いんだから、こんなこと思ってちゃだめなんだけど。
 それにしても、こういうときって何をしていればいいんだろう。あんまりごそごそすると起こしちゃうかもしれないし、うるさくしたくもないからテレビもつけられない。ゲームもできない。冷えピタはまだ換えなくっても平気だし…、となると、寝顔を見ているしかない。彼は、わたしの看病をしているとき、何をしていたんだろう?じっとしてるの、わたし、苦手なんだけどな。
 いろいろ考えながら、ベッドに顎をのせて、より近くで彼の寝顔を眺めてみた。眼鏡のない寝顔はすこしだけ年相応に見える。ほっぺがちょっと赤い。寝息は、苦しそう。
 やっぱりなんか、かわいいかも。
 気付かれないように、ほんの少し触れるだけのキスをした。たぶん、唇はさっきのはちみつれもんの味がしてる。きっと。
 (でもやっぱり退屈だから、はやく風邪なんて治ればいいのに)



くがつ

 いとしの彼女が唇をへの字にまげて怒っているので、背もたれ越しに後ろから頬をつついてやったら、振り向いた瞳は涙を湛えていた。うわこらあかん、泣きそうやん。俺はあわてて回り込むと、ソファの隣に座り丸くてかわいい頭をヨシヨシする。
「ほらちゃん、かわりにゲームしよか」
「やだ」
「あーじゃあ、いちゃこらしよか?」
「やだ!」
 どさくさに紛れて自分に都合のいい提案をしてみたら、クッションでぶん殴られた。ぜんぜん痛くはないが、かろうじて零れていなかった涙がとうとう頬に落ちてしまう。例年通りの梅雨空は、いたく彼女の気に入らなかったらしい。今日の予定を雨に潰されてしまったことが相当にショックだったようだ。は洟を啜りながらもう一度、やだ、と呟いた。ぐずりんぼうでいうことをきいてくれない、けれど昨日は確かに、子供のようにはしゃいでいた。子供のようなのはいつものことだが。
は泣き虫さんやなあ…」
 ヨシヨシ、と言いながら引き寄せると、だってたのしみにしてたのに、とクッションを胸元に抱きしめたまま彼女は俺の肩に顔を埋めた。降ってしまったものはどうしようもない。そしてクッションがとても、邪魔だ。俺が感じたいのはクッションの柔らかさではない、ちゃんの柔らかさなのだ。
「ほんなら、梅雨明けたら行こな。もうすぐ明けるやろうから、ちょっとの辛抱や」
 さりげなくクッションを抜き取ってソファの下に転がしながら、の身体を抱えなおす。はうんと頷いて、腕の中に大人しくおさまった。俺としてはこうして雨に閉じ込められているほうが都合がいいのだが、それは黙っていたほうがよさそうだ。
 (ほいでちゃん今からなにする?いちゃこらしよか?)(ううん、お腹すいたから、ごはんつくって!)