現在の状況を物語に例えるのなら、まさに天の岩戸の神話そのものである。俺の大切なお天道様は、雲隠れしてヘソを曲げてしまっていた。
「ちゃん」
木製の岩戸に手をついて声をかけると、ぐすん、と鼻をすする音が応えた。ああ、やっぱり泣いている。たまらず開けてもいいかと尋ねると、ヤダ、ときっぱりした涙声が返ってきた。どうすればいいものか。俺は天を仰いだ。
事の発端はほんの1時間前、俺が従兄弟と電話をしていた時のこと。いつもどおり時折怒鳴り合いながら会話をしていたのだが、お互いの部について話が及んで多少長話になってしまった。
はその時、晩御飯を食べ終えて、カーペットにごろんと寝転がってテレビを見ながら本を読んでいた(もちろんそんな器用な事が彼女に出来る筈もなく、本はなかなか読み進められずにテレビ番組もところどころ見逃してしまっているようだった。それでも同時進行をしようと頑張っていた)。
俺のことを気にしている様子はなかったし、本とテレビに完全に気が行っていたように思う。だが途中から飽きてしまったのだろう。恐らくは本を閉じ、それからぼんやりテレビを見ていたに違いない。しかし電話に熱が入ってしまっていた俺は、それに気がつかなかったのだ。
電話をし始めて40分も経った頃、は突然立ち上がった。そしてそのまま、すたすたとクローゼットへ向かう。流石にそれには気付いた俺が、服に用事でもあるのだろうかと見ていると、は扉を開いたその中へそのまま入ってしまったのだ。トイレへでも行くように。
そッそこはトイレ違うで!
…と一瞬思ったが、さすがにと言えどもそこまでオトボケではない。状況が掴めず声をかけても、返事がない。いくらクローゼットの中でも、こちらの声は届いているだろう。
遊んでいるのであれば、なあに、とご機嫌な返事が返って来るはずだ。ということはつまり。
彼女は怒っている。いや、この場合拗ねていると言ったほうが正しいだろうか。
とにかく、お姫様の機嫌を損ねてしまったということに、この時俺はやっと気がついたのだった。
そうしてもう15分、彼女はクローゼットに立て篭もっていた。何度声をかけてもおやつで釣っても、ヤダとバカしか返ってこない。これは結構真剣に拗ねている。
彼女は気まぐれだが、とても寂しがりで構われたがりだ。退屈している時に、他の人間との会話に熱中している俺を見て寂しくなってしまったのだろうか。…そうだとしたら可愛すぎて堪らない。何故俺はかわいいを放り出してあんなのと電話なんかしていたのだろう。小1時間前の自分の襟首を掴み上げてがくがく揺さぶってやりたい衝動にかられたが、出来ないものはどうしようもない。とにかくこの状況を打破しなければ。
「ちゃん、ごめんな」
に対してはいつでも優しい声になるが、それよりも更にやさしくやさしく話かける。やはり返事はしてくれない、しかし俺は諦めずに続けた。説得に重要なのは根気なのだ。
「といっしょにおるのに電話なんかして、俺があかんかったな。ちゃんと一緒の時はもうあんなんと電話なんかせえへんわ。約束する」
せやから、ここ開けてくれへん?岩戸に手をついて、懇願する様に語りかけた。彼女は意地っ張りだが、真剣に謝ってお願いすると割と譲歩してくれ、譲歩してしまえば結局は機嫌を直してくれる。
だが、やはり返事はなかなか返って来なかった。
「?聞こえとる?」
「……いらない」
「え?」
「そんな約束、していらない」
まだ泣いているのか、震えた、しかし頑なな声だった。
「電話くらい、したらいいじゃん、べつに」
「…」
すっかり意固地になってしまっている。俺はため息を吐いた。何と言うべきだろうか。
「、俺、がいっちばん大事なんやからな」
「……」
「こんなことでヤキモチ焼かんでも平気やで。そもそもただの従兄弟やし」
「…こんなことじゃないもん」
頭をかきながら、もわかりきっているであろう事を言う。俺の中では、と謙也とでは比べる意味すらないほどなのだ。月とすっぽんどころの話ではない。がヤキモチを焼く必要は露ほどもない。
しかし、彼女から返ってきた言葉は意外なものだった。
「こんなこと、じゃないもん!」
「へ?」
「ずるいよ!」
「ず、ずるいって」
「だってたくさん知ってるじゃん!ふたりの内緒のはなしとかするじゃない、それあたしわかんないもん」
「え…」
確かに昔の話をすることはよくあるが、罵りあいの材料としてである。同い年なこともあり、一緒に遊んでいたこともあった。ただその時の話をしただけで、特に内緒の話というわけではない。
というか、いつも俺が電話している時興味のないような顔をしていると思ったが、実は話を聞いていたのか。
「あたし知らない、まえの侑士なんて。こっちくるまえのこと、なんにも」
「」
「でもいとこくんは知ってるじゃない。あたしの知らないことみんな、いっぱい知ってる」
今まで我慢していたものが溢れるかのように――いや、実際我慢していたのかもしれない――少し早口ではまくし立てた。
ずるい、そんなの。混乱したような声音でがつぶやく。
「どんなうちに住んでたのかもどんな友達がいたのかも、あたしは何にも知らないのに」
「ちゃん、」
「あたしだって、侑士の近くでうまれたかった」
言い切ってしまうと、は黙り込んでしまう。俺はと言えばまさか彼女がこんな風に考えてくれていたとは知らず、ただ感動にうちひしがれていた。これは紛れもなく嫉妬であり、また、独占欲だ。が俺に対してそういう感情を抱いているという事実が、どうしようもなく嬉しかった。
「なあ、」
「わかってる、こんなの言ってもどうしようもないって…でも思うんだもん」
「」
「そう思うものは思うんだもん、もうよくわかんないバカもーやだ」
自分でもその感情に困惑しているのか、彼女は涙声でぐずぐずとつけたした。この子はなぜこんなにも、俺を喜ばせるのが上手いのだろう。
というか、めっちゃくちゃ、可愛い。
「ほな、。今度一緒に大阪行けへん?侑士くん生誕ツアーしよか」
「……」
「写真とかあるし、一緒に見ようや。の知らん話、いっぱい教えたるよ」
「……」
「ちゃん、寂しなったんやんな。ごめんな」
非常に邪魔なクローゼットのドアに向かって、その向こうに居る彼女に慈しむように語りかける。謝ると、べつに、と小さな声が応えた。べつにあやまんなくていいよ、という声音は、先ほどよりはずっと力が抜けている。…少し落ち着いただろうか。
「けど、俺も同じなんやで」
「……え?」
「俺と会う前、どんな子やったんかなとか、どんな顔して笑いよったんかなとか、どんな友達おったんかなとか。俺も知らんくて、寂しくなんねん」
「……そ…うだったの…?」
「当たり前やろ、俺のこと大好きやねんもん。と同じ小学校通っとった男全員に嫉妬するわ」
「お…おおげさだよ」
力を込めて言うと、は少し照れたようだ。こちらとしては、まったく大仰でも何でもない。正直に言って、の独占欲と自分の独占欲とでは天と地程も差があるだろう。の目に、男であろうと女であろうと他人など映らなければいいと思う。は自分のわからない話をされるのが嫌な程度で、閉じ込めてしまいたいなどと考えたことはないだろう。
しかしその独占欲が何から来るものなのかという点においては、大差ない筈である。
「……せやけど、そうやなかったら、会えてないかもしれへんし。今みたいに一緒に居られへんかったかも」
とりあえず俺は、のかわいい顔が見えないのがそろそろ限界だった。独占欲云々はわかりきったことで、今はそんなことはどうでもいいことだ。顔を見ないで会話するというのはとても疲れる。とにかく早くここから出て来て貰わなければと、俺は収拾の方向へ持って行こうとする。
が、予想に反しては、否やの声をあげた。
「そんなことない」
「…うん?」
「どこでうまれても、きっといっしょにいたよ」
「…へ…」
「…………と…おもう…おもった…………たぶん」
言いながら自分で恥ずかしくなったのか、だんだんと尻すぼみになってしまう。この子は、ほんまに、いったい、何なんや。
「ちゃん、開けるで」
だんだんもう如何でも良くなってきて、俺は扉の取手に手をかけた。
「えっ、だめ」
「駄目やないやろ?もー、開けるからな」
「やだまって、あと3分…」
「ごめんな。待てへん」
突然態度を変えた俺に驚いたような声を上げるに構わず、開けるからな、と一応一言断って、俺はとうとう岩戸を開いた。鍵がかかっているわけでも扉が重いわけでもないのだ。得に問題無く、至って普通に開けられる。開かなかったのは、ただ単にが嫌だと言ったからだ。
クローゼットの中からは、両頬を赤く染めた彼女がうろたえたようにこちらを見上げていた。構わずに中へ入って行って、うずくまる身体ごと抱きしめる。後ろ手に扉を閉めると、部屋からの明かりが隙間から差すのみの小さな空間は薄闇に包まれた。腕に少し力を込めると、はうーともむーともつかない声を上げる。
「やだって言ったのに」
「せやかて、があんまり可愛いもんやから。我慢の限界やわ」
額を合わせてまたごめんな、と言うと、は頬を膨らませた。拗ねる仕種もまたいとしくてたまらない。クローゼットの中は当然狭く、俺には少し窮屈だったがかまわなかった。
「がヤキモチやいてくれて、俺めっちゃ嬉しいわ」
「やいてないもん…」
「ほんまに?昔の俺を知っとる謙也がうらやましかったんやろ?」
「……………うん」
「それ、ヤキモチって言うんやで」
わかるやろ?と親指でその頬を撫でる。はうぅ、と唸ったが、反論はしない。本人も分かっているのだ。ただ恥ずかしいだけで。少し拗ねたような表情が可愛くて、頬に音をたててキスをする。
「で、いつ行こか」
「どこに?」
「大阪」
「…ううん、もういいよ」
「…ええの?」
「うん」
続けて目尻に口づけながら尋ねると、不思議に穏やかな表情では言った。
「話してくれたら、それでいーの…ほんとは。だから秘密の話、おしえて」
「そうか?」
「うん………あ、でも写真みたい」
「写真?なんも面白いことないで」
「…おもしろいよ、ちっちゃい侑士見たい。いまこんなんなのに、ちっちゃい頃があったなんてうそみたい」
は俺を見上げて可笑しそうに笑う。ハンガーに掛けられているコートが頭に乗っかっているからだろうが(そもそも人が入る所ではないのだから、狭いのは当然のことだ)、何処か失礼な発言である。
「ほんなら、の写真も持って来てや。アルバムあるやろ」
「えっ…」
「ちゃんが持って来てくれるんやったら、俺も持って来るわ」
「え、えー」
「えーやないで。けどちゃん今もちっちゃいから、そんなに変われへんかな?」
の前髪を梳きながらかきあげる。からかうように言ってあらわになった額に唇を当てた。はムッとしたように、そんなことない!と俺を軽く睨みつける。
「そんなら、持って来てな」
その瞳を覗き込みながら言うと、誘導されたことに気づいた彼女はずるい、と呟いた。しかし後の祭りだ。約束な、と念を押すと、はまたもや頬を膨らませる。
「楽しみやわ」
もう過去は手に入らない、それは分かっている。しかし今手に入れられるものもある。それで十分だと思えるかどうかはわからないが、いまこうして彼女が腕の中にいる限り未来もまた同じ腕の中にあるのだ。決して本気で拗ねているわけではない、彼女の照れ隠しの表情は紛れも無く、自分だけのもの。
この狭い薄闇の中では、お互いしか見えない。ばか、と不満を呟く口を塞いで吐息を奪っても、が抵抗することはなかった。
真 夜 中 の 太 陽
「ね、もう、ここ出る」
「何で?べつにええよ」
「だって侑士せまいでしょ…」
「平気やって」
「でも」
「あかん。もうちゃんはここから出せません」
「どうして?」
「世界一かわいいに悪い虫がついたら大変やろ。おんもは危険でいっぱいなんやで」
ひそかに、冗談めかして本音を告げる。侑士がいるんだからむしなんてつかないでしょ、と彼女はくすぐったそうに笑った。
叶わないことはわかっている。本気で叶えるつもりもない。ただ、もうしばらくはどうかこのままで。そう願いながら、抱きしめる腕に力を込めた。太陽を覆い隠す雲のように。