La clef d'un fond moins de marais





 気がつくと彼女の事ばかり考えている。ほんの僅かな癖も所作も形作る表情や雰囲気や感情も彼女のすべてを自分は記憶し、反芻し、いとおしさに頬を緩める。きっとその時の自分は恋をしてふやけきった阿呆な男の顔をしているのだろう。既に他人には数えきれないほどの回数呆れられている。
 けれど、それが何だというのだ。恋とはそういうものである。ただひとつの要素が加わるだけで、世界の総てが科学反応を起こしたかのように急激に鮮やかになるのだ。
 自分にとって彼女とは世界の中心であり総てである。万有は彼女のもとで起こり得る。簡単に言ってしまえば俺、忍足侑士は彼女、を心の底から愛しているのだ。



 そこまで饒舌に捲し立ててから、眼鏡の青年は唐突に口を噤んだ。聞き流しながら彼の相手をしていた友人らしき青年がどうかしたのかと尋ねる。眼鏡の青年は公然と顔を上げた。

「俺、ちょっと…ちゃんに電話してくるわ!」
「…そうか。好きにしろ」

 友人の言葉を最後まで聞くこともなく、眼鏡の青年は携帯電話を掴むと講義室を出て行った。
 確かその彼女も学部が違うだけで同じ大学の構内に居るはずなのだが、そもそもあとひとつで本日の講義は終了なのだがそれも待ち切れないらしい。
 それにしても噂の彼女は一体、あの過剰で異常とも言える愛情表現をどんな顔で受け止めるのだろうかと、青年は友人の恋人に少しだけ興味が沸いた。
 むろん、馬に蹴られる気はないので口には出さないけれども。




(底なし沼の鍵)