何かの動物の毛が少しだけ混じったニットを彼が着ている。わたしはその感触がとても好きで、抱きついて頬擦りをした。やわらかい。
人間の生きているにおいなんていいにおいのはずはないのに、彼のにおいがすると安心する。ニットからはいつもの洗剤の香り。これが一番ふわふわになってええにおいなんや、って誇らしげに教えてくれた、ピンク色の入れ物の洗剤だ。
「?」
横から抱きついて頬やら額やらを押し付けるわたしに、困惑気味の彼が声を掛ける。
なにか言うのが面倒で、答えずにしがみつく指に力を込めると、大きな手がわたしの頭を撫でた。いつもみたいに。
「…いいな」
「うん?」
「このニット」
あたたかい胸元に凭れかかりながら彼の顔を見上げる。不思議そうな顔をした彼が「ニットがどうかしたか?」と聞いた。つやつやとした細かな毛の混じるそれと、彼の瞳の色は良く似た黒色だ。
「これほしい」
「欲しいって…着るん?が着たらぶかぶかやで。可愛いやろうけど」
「ううん、着ない」
「…着んでどうするんや?」
「わかんない。…うちに置いとく」
繊維が伸びてしまわないようそっと握ってひっぱる。やっぱり柔らかくて気持ちがいい。着たいわけじゃなくて、ただ欲しいだけ。だから貰ったとしても、部屋に置いてときどき触ったり、するだけだ。
なんやそれ、と軽い笑い声を上げて彼は笑う。わたしがどんなことを言っても、決してばかにしない笑い声。
このあいだとても悲しいことがあって、彼にしがみついて泣いた。その時彼が着ていたのも、このニットだった。やわらかい生地はわたしの涙をたくさん吸い込んで、しょっぱくなってしまった。それを彼があのピンクの容器の洗剤で洗ったのだ。だから今日はこんなにふわふわしていい香りがする、彼の言うとおりに。わたしはこの洗剤が洗剤の中で一番好きだ。
だけど、考えてみる。たとえば貰ったニットを部屋においておく。でも、きっと涙は吸い込んでくれない。だってただ置いてあるだけでは、しがみつくところがない。
「はそんなにこの服好きなんや」
「うん」
「ほんなら、あげようか。俺はかまへんし」
「ううん、やっぱりいい」
「へ?…好きなんちゃうん」
「ううん。間違えた」
わたしは凭れていた体を起こした。彼はよくわからない、という表情でいるけれど、頑張って分かろうとしてくれている。彼はいつもそうだ。その真剣な眼はニットと同じ、でも種類の違う黒色。わたしのとても好きな色。とくに意味はなしに、なんとなく座り直して、それで言った。
「侑士が着てるのが好き」
たしかにとてもいい手触りで、動物の毛がつやつやしてきれいだけれど、そうじゃなく、彼が着ていて彼のにおいがして、彼が選んだ洗剤で洗って、朝に干してまだお日様の高いうちに取り込んで、彼がまた着る。わたしはそれが好きなんだった。
昔は黒色なんて、ピンクやオレンジと違ってかわいくないから好きじゃなかった。嫌いでもないけど、好きではなかった。なのにいつの間に、こんなに大好きな色になったんだろう。黒は黒でもたくさんの黒があるけれど、どれも好きだ。だって彼の髪や眼に似ているから。
「侑士が着てるのがいいんだった、間違えた。だからくれなくていいよ」
「ほな、これ着とればちゃんを一日ぎゅっとしとっても嫌がられへんわけやな。俺は」
「うーん。それはトイレにいけないからこまる」
「嫌やないんか?」
「べつにそれ着てなくても、いやじゃないよ」
好きな色を眺めながら言うと、少しびっくりしたみたいな顔。それから二本の長い腕が伸びてくる。あの洗剤のにおいがした。これ、なんて名前のにおいなんだっけ。お花だっけ、くだものだっけ。考えているあいだに、気づけばふたたびわたしは柔らかい生地に顔を埋めている。
「」
「なーに」
「あんまりそういうこと言われると、ほんまに一日中離せへんのやけど」
「トイレとおふろ以外ね」
「あ?」
「あ、ごはんも?」
「……ほんまにやるで」
「そっかー」
どこか拗ねたみたいな声がおかしくて、笑いながら答えると両頬をはさまれて額を合わせられる。本気で聞いとる?と聞かれた。べつにいいかと思ってるんだけど、本気じゃないみたいに見えるのかな。
「ゆうし」
「なんや」
「黒がにあうね。ピンクはにあわないけど」
「それは、誉めてるん?」
「わかんないけど」
でも、黒が一番、にあってる。
要領を得ないわたしの返答に仕方のない子やなぁと笑って、彼はため息をつくようにわたしにキスをした。思わず柔らかい生地をにぎりしめてしまったから、少し伸びてしまったかもしれない。
でもまた彼が洗濯して、晴れた日に干してくれるからきっと大丈夫だと思う。これで洗うと生地もしゃっきりするって、ドライ表示でも安心やって、確かこのあいだ言っていたから。
