開け放った窓から、涼しい風が吹き込んできてカーテンを揺らした。つい最近洗ったばかりのカーテンは白くまばゆく輝いて、自分の仕事の丁寧さを強調している。やはり思い立って洗っておいてよかった。今日は冬物の毛布を洗ったがこれもすぐ渇くだろう、このまま虫干しをして、昼下がりに取り込んで仕舞ってしまわなければ。それにしてもこの頃随分日差しが強くなってきた。風はまだ爽やかで心地いいが、もう暫くしたら蒸し暑い夏が――その前に、梅雨が――やってくるのだろう……

 と、そんな事を考えて気を紛らわせてみても、どうしても膝の上が気になって仕方がない。
 何故って、可愛い可愛い恋人が、俺の膝を枕にころんと寝転がっているからである。

 彼女――芙由は、どうにもこうするのが好きらしい。芙由の真っ白な太股と違って柔らかくも気持ち良くもないはずの俺の脚(筋肉しかついていないぐらいなのだ)が枕に相応しいとは思えないのだが。とにかく最近気に入っているようで、俺がソファーに座っているとわざわざ床に座り直させられたりすることもあった。
 理由を聞いても「なんとなく」としか教えてはくれないので、もう好きにさせているがとにかく気になる。

 何と言っても芙由の、チャームポイントと言ってもいい可愛い丸い頭(とはいえ、彼女はチャームポイントだらけなのだが)が俺の膝の上に乗っているのである。ときどき寝返りを打っては、仰向けにこちらを見上げたり、俯せ気味になって頬が膝に押し付けられたり、無意味にごろごろしてその柔らかい髪がしどけなく乱れたりする。正直に言って、芙由のその頭の重みを感じるだけで興奮するのに、そんなにも動かれたらドキドキしてしまう。
 その上、しばらくじーっとこちらを見上げていることすらあるのだ。そのまっすぐなどんぐりまなこに見つめられていると、ヨコシマな想いを見透かされているような気がして気分は針のむしろである。というか今もまさに針のむしろである。つまり、下からジッと見つめられているのだった。

「…ふ、芙由?」
「んー?」
「あの、そんなに…見んといてくれる…?」
「なんでー?」
「いや、あの…………いや、ええねんけど」
「そう」

 普段あんなにもおしゃべりなのに、こんなときはただ黙りこくっているのだから堪らない。これは気を反らさなければ変な気分になってきてしまいそうだ。何か話をしよう、と思って必死に頭を巡らせる。芙由も興味を示しそうな話題を上手くチョイスすれば、興味津々のスイッチが入って起き上がってくれるかもしれない。

「なあ、芙由ちゃん。芙由ちゃんの名前の意味って知っとる?」

 というわけで、芙由の頭を撫でながら唐突にそう切り出した。芙由はほんの少し眠そうな(アレッ、眠そうやん)目で、しかし不思議そうにこちらを見る。

「ううん、知らない。……あ、お花のなまえ?だったっけ」
「うん。芙って字がな、蓮の花のことやねん」
「はす?て、どんな花だっけ…」

 案の定、勢いよくではないが興味を引かれたようだ。首を傾げて、蓮の花の形状を思い返そうとしている。

「池とかの水の中から咲くお花やで。おっきい丸い葉っぱと、ピンクとか白の花が水面に浮いてるみたいに」
「あ、あれかぁ」
「うん、7月頃咲くんやで。夏の季語やねん」
「ふうん」

 そうなんだぁ、と芙由はのんびり言う。俺が半ば無意識に頭を撫でて、乱れた髪を指で梳いてやると気持ち良さそうに目を細めた。か、かわいい。まさに子猫ちゃんやな。

「めっちゃ綺麗な色やねんで」
「そうなの?」
「図鑑持ってきたろか?」
「うん、みたーい」
「ほな、ちょこっとだけどいてくれへん?取ってくるし」

 芙由が楽しそうに声をあげて瞳を輝かせたので、これは上手くいきそうだと俺はにっこり笑ってそう言った。図鑑をとってきて、それを広げれば自然と芙由は横に座って一緒に覗き込むはずである。
 が、しかし。

「あ、あー、…じゃああとでいいや」

 …断られてしまった。そんなにひざ枕が好きなんか。俺としては、ひざ枕はするよりしてもらう方が楽しいんやけどなぁ。思わず黙ってしまったが、芙由が期待に満ちた目でこちらを見ているのに気付く。どうやら、まだ話を聞きたいらしい。
 こうなってくると、芙由の知らない話をたくさん教えてやろうと張り切ってしまうから不思議である(ちなみに何かに興味を引かれているときのわくわくした表情も芙由のチャームポイントのひとつだ)。

「蓮ってな、水底の泥から生えてんねんで」
「え、そーなの?浮いてるんじゃないの?」
「違うねん。実は水の下に茎がながーく続いてんねん」
「へーぇ」

 すごいんだねえ、と彼女は感嘆の声を上げる。大変素直な子なので(あまり難しい話だと理解できなくて退屈してしまうのだが)知らないことを話してあげるととても素直な反応を返してくる。そんなところも無論、チャームポイントだ。
 あんまりにも可愛くて、ヨシヨシと前髪の生え際を撫で撫でする。芙由はなあに、とくすぐったそうに笑った。

「泥の中から生えてるのに、そんなん全然わかれへんくらい綺麗に咲いとるやろ。せやから蓮は、清らかなものとか聖なるものの象徴でもあるんやて」
「?…うん」

 芙由はよくわからない、と言う表情でこちらを見上げた。まあるい瞳はいつでも真っ直ぐだ。そして何年経とうとも変わらずにひどく澄んでいる。蓮は泥より出でて泥に染まらず。芙由もまた、決して泥に汚れることはないだろう。

「芙由の名前は、そういう花の名前なんやで。芙由にぴったりやなぁ」
「……そう、かな」

 何度直しても動いて乱れる髪をまた手櫛で梳いてやりながら、その瞳を覗き込む。芙由は頬を染めて、照れ隠しに口を尖らせた。そのかわいらしい唇を啄んでやりたい衝動を堪えながら、当たり前やろ、と言うと、今度は嬉しそうに微笑む。それは間違いなく、この世で最も清らかなもの。
 芙由が蓮から生まれ出でた少女神のような気がして、その秀でた額に口づけた。彼女はまたくすぐったそうに――楽しそうに、鈴を転がしたような声で笑う。

「…なんか、侑士」
「うん?」
「おかあさんみたい」
「…………うん?」

 俺としてはいま結構いい雰囲気だったつもりなのだが、聞き間違いだろうか(いま、お母さんて言うた?)。芙由は何がそんなに楽しいのか、暴虐的に可愛らしく笑っている。

「え、えーと、芙由ちゃん…」

 ちょっぴり悲しくなった俺は、彼氏のつもりなんやけど、と言おうと思った。しかし、芙由がころん、とまた手前側に寝返りを打って(!)俺に頬擦りをした(!!)ので、衝撃でなにも言えなくなってしまった。なんやこの子猫ちゃんは…!?

「うれしい。…なんか名前付けなおしてもらったみたい」

 そうして愕然とする俺に、こんな事を言って追いうちをかけてくる。そうだこれは、楽しいのではなく、嬉しい笑顔だ。嬉しくて嬉しくてたまらないという笑い顔だ。

「あたし、侑士に名前呼ばれるのすきだけど、今日もっとすきになった」

 ありがと、いつも甘える時の甘えた声で、少女は言う。聖性を頂く花と同じ名の彼女はしかし、間違いなく人間だ。
 もうこれは思いっきり抱きしめてもいいだろう、そう思って小さな体を膝の上に抱き上げる。彼女は抵抗しなかったが、あ、図鑑、と声をあげた。蓮の花の写真が見たくなったのだろうが、しかし今更言ってももう遅い。
 少なくとも長いキスの後で構わないだろう、と、俺は花びらのような唇を今度こそ啄むのだった。