自分の名前が、綺麗なお花の名前がもとだったと教えてもらった。お母さんからほんのすこし聞いたことがあったけど、ほとんど覚えてなかったのに。彼はすごくものしりで、何でも知っている。図鑑に載ってないことなんて、どこで調べたのかな。
だって図鑑には、何科の花なのかとか、開花時期とかしか書いていない。彼の膝の上に座って、テーブルの上の図鑑を覗き込みながらわたしはそんなことを考えた。
ちなみに膝の上に座っているのは、さっき図鑑を隣の部屋の本棚に取りに行くとき、どうしてか侑士が離してくれなくて、子供みたいに抱っこされたまま取りに行ってそのまま、また座ったから。別に楽だからいいんだけど、どうしたのかな。
蓮の花の写真とにらめっこしながらうーん、と考えていると、後ろの侑士がまた頭を撫でてくる。どうやら彼はそうするのが好きみたいで、ことあるごとに頭を撫でたり髪をすいてくれたりする。気持ちいいから、わたしも好きだけど。
ほんとうはさっきみたいにひざ枕して欲しいんだけれど、あの体勢だと図鑑が見づらいから我慢する。だってこの図鑑、大きくてとても立派で、すごく重たい。…どうしてこんなの、持ってるんだろう?
「ね、さっきの話って何で調べたの?これに載ってないね」
「さっきの話?」
「えーと、きよらかなもの、とか…」
「ああ、大学で。宗教学でちょっとな」
しゅうきょうがく……。彼は理系だから、そんな授業たぶん必須じゃない。ということは、受けたくて受けたんだろう。わたしにはとても信じられなくて、考えただけでくらくらした。
「侑士って、勉強好きだよね……」
なんとなく引き気味に言うと、彼はそうか?と不思議そうな顔をする。それから笑顔になって「勉強より芙由ちゃんの方が好きやから安心してええで」だって。そんな心配してないし、そんなこと聞いてないんだけどな…。
彼はそのままわたしの頭にキスをしてくる。面倒だったし、まあいいかと思って放置していたら後ろから抱きしめられた。うーん、ちょっと暑い。
「ね、侑士」
「んー?」
彼はわたしの耳のうしろあたりに鼻先を埋めているらしく、そこで喋られると少しくすぐったい。肩を竦めながら、お腹に回された腕に手をかけて振り向くと、顔がすぐ近くにあった。
ちょっとびっくりしたけれど、構わずにそのまま続ける。
「じゃあ、侑士はどんな意味なの?」
「意味?俺の名前のか?」
「うん」
「さあ、調べたことあらへんなぁ」
「えー」
軽く肩を竦めて彼が答えたので、わたしは思わず声を上げた。だってわたしの名前の意味は調べてあったのに、自分の名前は調べてすらいないなんて。ふつう、自分の名前も気になるものなんじゃないのかな。
「なんで調べてないの?」
「なんでって…興味あれへんかったし」
「あたしの名前の意味は知ってたのに?」
「そら、芙由ちゃんの名前やねんから。調べるに決まってるやん」
「…なにそれ」
なんとなく腑に落ちない。へんなの、と呟くと、侑士はそうか?とわたしを抱き抱え直した。
「ねえじゃあ、あたしが調べる」
「うん?」
わたしは横向きに座り直すと、彼が握ってきた手をぎゅっと握り返して少しだけ振った。気づいたらまた顔が近くて驚いたけど、やっぱり気にしないことにして言う。
「それで、侑士に教えてあげるよ」
「へ?」
「さっきあたしに教えてくれたでしょ。だから次はあたしが教えてあげる」
いいでしょ、と言うと、彼は頭をかきながら別にええけど、と頷く。
「俺は自分の名前はどうでもええんやけど」
「あたしはどうでもよくないの!漢和辞典とりに行くから、手ぇはなして」
「ええよ、一緒に取りに行こ」
立ち上がって辞典を取りにいくのには、体に回った彼の腕が邪魔だ。その腕を軽く叩いて訴えると、彼はまた膝の下に腕を差し入れて、軽々とわたしを抱え上げた。そして立ち上がって、隣の部屋の本棚まで歩いていく。
でも歩いていくと言っても、ほんの数歩のことだ。正直、わたしがひとりで取りに行った方が早いと思う。それは侑士もわかると思うんだけど…。
「ねえ、別に運んでくれなくてもいいよ」
「ん?何で?」
「何でって、だってこんなちょっとの距離…」
「いやいや、ちょっとの距離でも俺は芙由ちゃんと離れたないねん」
「数メートルだよ?」
「数メートルもあかんねんて。腕も芙由から離れてくれへんしなぁ、仕方ないねん。ほれ辞典」
「…………ありがと…」
やっぱり腑に落ちない。けれど、彼はこの話は終わりとばかりに漢和辞典を本棚から引き抜くと、わたしに手渡す。そしてまたテーブルの前に座り込んで、わたしを膝の上に座らせた。ちょっとだけ、小さい頃お父さんの膝に座っていたのを思い出してしまった。なんだかなぁ。
だけどまあ(どうでも)いいか、と思い、漢和辞典をひらく。…これ、どんなふうに調べるんだっけ。
あんまり開くのが久しぶり過ぎて、調べ方がすぐに思い出せない。しばらくぺらぺらとめくっていると、察したのか後ろから腕が二本伸びてきて、代わりにページを繰ってくれる。そうか、そういえばこんな調べ方をしていた気がする。
「侑、の字は…167ページやって」
「うん」
167、167、と忘れないように唱えながら、またパラパラとページをめくる。辞典って、どうしてこんなに紙が薄いんだろう。すごくめくりにくい。一度通り過ぎてしまって、慌てて戻る。テーブルに置いたほうがいいと気がついて、置いた状態で167ページにやっとたどり着いた。
「あ、あった」
上から二段目に、「侑」の字を見付ける。…なんか、説明文が短い。そう思いながらも、わたしはその説明文を口に出して読んだ。
「音を表すと同時に、すすめるいをもつ有とからなり、ものをすすめる意味…」
「……」
「いち、たすける、に、すすめる、飲食をすすめる、さん、しょうばん…をする…………しょうばんって何?」
「相伴か…うーん、客の相手して一緒にお酒のむときなんかに使うな。一緒に行動するとかって意味やろうか」
「ふうん」
本当に彼は何でもしっている。感心しつつ、漢字の意味を引き続き調べる。何だか、いまのところ…
「微妙やな」
「えっ」
「意味微妙やなぁ、あんまりかっこよくあれへんな」
「そ…まって、ほらまだ続きあるよ」
特にどうでもよさそうに、彼がつぶやく。まさにわたしもそう思っていたけど、まだわからない。あと二、三行だけど、まだ読んでないんだから。
なぜかわたしが慌てて、続きをまた読み上げる。
「ひきでもの」
「…微妙やな」
「むくいる。むくい。…あ、」
「ん?」
「ゆるす、だって」
「赦す?」
「うん、あと、ゆるやか」
ちょっといい感じの意味のがあった、そう思ってわたしはすぐ後ろの彼を振り向いた(やっぱりまた顔が近いけど、もう気にするのも面倒だしいいや)。彼は相変わらず、微妙な表情をしている。
「ゆるす、なぁ」
「優しいって意味だよね、つまり」
「…そうか?」
「うん。このいっこめのたすけるって意味も侑士っぽいよ」
「ほんまに?」
「さっきも漢字調べるのたすけてくれたし、いつもたすけてくれるし」
「うん」
「や、やさしいし」
どうしてわたし、こんなに必死になってフォローしてるんだろう。いや、ていうかやっぱり顔が近い。今や額がくっついて、キスする直前みたいな距離になっている。座り直して距離をとろうとしても、彼の腕がしっかり腰に回っていてうまくいかなかった。
「あの、何してもゆるしてくれるし」
「ゆるすもなにも、そもそも芙由に怒ったことなんか俺あれへんけど」
「だ、だからやさしいって意味でしょ…」
なぜかしどろもどろになりながら言うと、彼は嬉しそうに笑ってわたしの頬にキスをしてくる。何とも言えず恥ずかしくなってきて、わたしは顔をできるだけ彼の顔から遠ざかるように背けた。そうしたら何と今度は首筋にキスをしてきて、思わず変な声を上げてしまう。
「何すんの!」
「芙由、そんな風に思うてくれてたんや。嬉しいわ」
抗議をしようと振り向いて睨むと、すごく嬉しそうな表情があった。しみじみ言われると余計に恥ずかしい。
「だから…そうじゃなくて」
「嘘なん?」
「う、うそじゃないよ!」
思わず言ってしまってから、しまった、と思うけれど後の祭りだ。慌てるうちに二本の腕にぎゅっと抱きしめられてしまう。髪に、というか頭にキスされる気配がして、芙由ちゃんは俺のこと大好きやんなぁ、という声がする。頷くことも否定も出来なくて困り果てて、わたしは固まった。ど、どうしてこんなことになったんだっけ。
「もー、じゃなくて名前の話でしょ!」
「うん」
「たすけてくれて、ゆるしてくれる、いい意味の名前だったねって、そういう話だったでしょ!」
「うん。つまり、芙由は俺のことめっちゃ好きやねんな?」
「………な、なんでそうなるの?」
ちょっと苦しいくらいぎゅうぎゅう抱きしめられて、なんとなく脱力しながらわたしは言った。妙に弾んだ声で、彼は答える。
「何でって、何個もある意味の中からいいモンだけ拾うてくれたやろ。正直俺の名前、意味よりは響きで付けたん違うかなーと思うねん。せやから意味とか調べてへんかったんやけど」
「…そうなの?」
「うん」
「それ、なんで教えてくれなかったの」
「気になるって、芙由言うたやろ。まあなんて言うかも聞きたかったしな」
「なにそれ!」
「いやー、ええこと聞いた。嬉しいなぁ」
大きな手が、よしよしとわたしの頭を撫でた。さっきキスをした頭の天辺に頬を擦り寄せて、彼は嬉しい嬉しいと繰り返す。
「自分の名前なんか好きでも嫌いでもあれへんかったけど、なんか前より好きになった気ぃするわ」
「…なまえ、好きじゃなかったの?」
「好き嫌い言う前に、興味なかったからな」
「ふうん…わたしはまえから好きだったけど」
「ん?…名前が?」
「うん。だって侑士の名前だし」
そう言うと少し腕の力がゆるくなったので、胸元にうずまっていた顔を上げた。彼はちょっと驚いたような顔でわたしを見ている。
「…それ言うたら、俺も芙由って名前大好きやで、意味とか関係無しに。芙由の名前やねんから」
「そう」
「芙由ちゃんが大好きやから、名前も好きなんやで」
「…うん」
「せやから芙由も、俺の名前好きっちゅーことは、そういうことなん違うん」
「…………うん?」
それとこれとは、違う気がする。というか、何の話をしていたのかわからなくなってきた。わたしをだいすきだから、侑士はわたしの名前が好き。わたしは彼の名前が、彼の名前だから好き。それは彼が好きだから?
「こんがらがってきた…」
「こんがらがれへんて。つまり芙由ちゃんは侑士くんがだーいすきやねんて」
そうなのかな。たしかに彼が別の名前だったとしても、彼を好きなことにかわりはない。別の名前でもきっとその名前を好きだと思う。ということは、やっぱりそうなのかも。でもそう言うのはちょっとむかつくので、小さく頷くだけにしておいた。
それでも上機嫌の、やさしい名前の彼は、また腕に力を込めてわたしを抱きしめる。彼の好きな、わたしの名前を呼びながら。