タクシーの中、ふぁあ、とアルコールの影響で赤い顔をしたが欠伸をした。ひどく眠そうだ。
このまま家まで寝かせてやりたいとも思ったが、俺は心を鬼にして口を開いた。今のうちに言っておかねばならないのだ。
「ちゃん」
「なあに?」
「どうしてお酒飲んだん?」
「…どうして?」
はおさけ、と首を傾げる。彼女の友人が間違えて飲んだ、と言っていたが、どうやら本当のようだ。本人に飲んだ自覚はないのだろう。俺は胸の内でため息を吐いた。
「ちゃん、お酒間違えて飲んだんやってな。ちゃんとグラス確認せんとあかんやろ」
「まちがえてのんだっけ」
「早川さんがそう言うてたやろ」
「ゆみちゃん?」
「そう、早川さん」
友人の名に反応したので頷いてやると、そっか、とは呟く。そして「ゆみちゃんがいってたなら、まちがいない」と続けた。…何やねん、その無条件の信頼は!?
そう、はこの大学の友人がとても好きらしい。考えたくはないが、何だか最近、俺よりも早川さんの方が好きなのでは、と考えてしまうぐらいだ。最近家に帰ってからもやたらとゆみちゃんゆみちゃんと彼女の話ばかりする。俺かて侑ちゃんて呼ばれたいのに。呼ばれたことあれへんのに!!!
嫉妬で胃をキリキリさせながら、俺は慎重に言葉を選んで再び口を開いた。
「前おうちでお酒のんだ時、ちゃんコテーッと寝てしまったやろ。あんなん外でなったら危ないやろ?」
「あぶないかな?」
「そら危ないわ、ちゃんは子猫みたいに…子猫よりかわいいねんから!!」
「…あぶないかなぁ……」
俺が大仰な手振りで言っても、は首を傾げてつぶやくばかり。ダメだ、聞いてへん。
「………、…早川さんに、迷惑かけるかもしれへんやろ」
「あ…そっかぁ……それはだめだなぁ」
試しに友人の名前を出してみると、今度はなぜか素直に聞いてくれる。な、なんやこの敗北感…!
俺は更に胃をキリキリさせつつ、咳ばらいをした。と、とにかく。
「とにかく、特に不特定多数の男女がおるとこでしかも飲み屋やったんやから、注意せんとあかんねん。どんな危ないことがあるか今の世の中わかれへんやろ。特にちゃんは、天使みたいにかわいいんやから。な?」
出来るかぎりの威厳を持って父親の気分で、と、の肩を抱きながら俺は言った。いつもいつもつい甘やかしてしまうが、言うときは言わなくては。
しかし言い切ってからを見ると、俯いていた。てっきり、不満そうに頬を膨らませているか、はあい、と不服そうなかわいい返事をするか、どちらかだろうと思っていたのだが。
「……?」
まさか寝ているのかと思い、恐る恐る呼びかけてみる。座高の関係で、すぐ隣で俯かれてしまうと表情がまったくわからないのだ。しかし手を握るとぎゅっと握り返して来たので、寝てはいないようだった。もう一度呼ぶと、頬にかかる髪が揺れる。
そしては、消え入りそうな声で「ごめんなさい…」と呟いた。
「………え?」
俺は思わず、耳を疑った。いま、ごめんなさい、て言うたか。ごめんでもごめんねでもなく、ごめんなさい て…!
「ちゃん?」
「だって、おぼえてないけど…だって…わかんなくて…のんじゃったんだもん…」
俺が衝撃を受けているうちに、が言葉を紡ぐ。ごめんなさいの声も心なしか震えていた気はしたが、続けて聞こえてきた小さな声も明らかに涙に濡れていた。しまった、またやってしまった。そういえば前回酔っ払った時も泣いていた。泣かせたかった訳ではないのに!
「、違うんやで、」
「おこっちゃやだ、もうしないから、おこんないで…」
「おっ、怒ってないで?!?!」
おろおろしている間に、の涙が膝の上にぽろぽろと零れ始めた。俺の手をぎゅっと握りしめて、が泣きながら俺を見上げる。ウッ、めっっちゃ可愛い…!!
おろおろしながらも、なんとも嗜虐心と独占欲をそそられる泣き顔に俺は内心でもんどりうった。俺の天使は泣き顔までパーフェクトにかわいい甘えん坊の子猫ちゃんや!と今、世界中に叫びたい。
……が、ここはタクシーの中だ。ていうか、運ちゃんがさりげなくめっちゃこっち見とる。いやそもそもこの状況、見ようによっては彼女を泣かすDV彼氏みたいやん、俺。
あまり状況が芳しくないことに今更ながら気付いた俺は、の肩に回していた手で必死にの髪を撫でてやる。
「、ぜーんぜん俺怒ってへんよ?」
「うそ、おこってるもん、いつも、侑士、あんな言い方、しないもん」
優しく優しく言っても、俺が怒っていると思い込んでいるはしゃくりあげながらふるふると首を振る。えええ、どうしたらええねん、俺。心を鬼にするタイミングを確実に間違えてしまったようだ。明日の朝にすればよかった…!
が、後悔は先に立たず。今更悔やんでもどうにもならないので、今はこの泣き虫の天使を宥めなくては。俺は引き続き、あやすように髪を撫で、可愛くて柔らかい小さな手も撫でさすりながら(…べつに下心はあれへんで?!)、怒ってへんよ、と語りかける。しかしは「うそ、おこってる」の一点張りで何故か受け入れてくれない。なんでや…!?
ぐすん、とが鼻を啜る。俺は少し考えて、発想の転換をはかる。ていうか、もしかしてこれってチャンスなんと違うか。
「…な、ほな、」
「なぁ、に」
「ほな、侑ちゃん、て呼んでくれたら許したるよ」
「……へ…?」
そう、すなわち、俺も侑ちゃんて呼ばれたい作戦のチャンスだ。俺の言葉が意外だったのか、はきょとんとこちらを見上げる。
「侑ちゃんだーいすき、て言うてくれたら、もう絶ッ対怒れへん」
ちょっとドキドキしながら俺はそう言った。平時なら、ばかじゃないのと一蹴されてしまうところだ。運ちゃんの視線も気になったが、それはどうでもいい。そんなことよりも大切なことが今、目の前にある。
「……ほんと?」
ああ、神様。俺は胸の中で歓喜した。は希望が見えた、と言わんばかりの表情で、尋ねてきたのだ。俺はどもりそうになりながら、ほんとやで!!と念押しする。
するとはよかったぁ、と呟いて、ホッとしたように笑顔を見せる。あああ、可愛い…。いや、そうやなくて。
「ほ、ほな、言うてくれる?」
「うん」
「ほな、お願いするわ!」
託宣を待つかのような気持ちで、俺は耳を澄ませた。わずかもしないうちにの珊瑚色の唇が開いて、言葉を紡ぐ。
「 侑ちゃん、だいすき 」
………………もう今、死んでもなんの後悔もあれへんわ、俺。
の甘い言葉の余韻を噛み締めながら、そう思った。
脳内で反芻させていると、が服をくいくいと引っ張ってきた。見ると、もう怒ってない…?と恐る恐る聞いてくる。怒ってないで、と頷くと、よかったぁ、と笑顔になって凭れかかってきた。素直になれなくて素直なも可愛いが、しおらしいちゃんも犯罪級に可愛らしい。
あーめっちゃチューしたい。っていうかチュー以上のことしたい。チューくらいしてええかな、タクシーやけど。べつにええよな、舌入れへんしええよな。
一瞬でそんなことを考えて、俺はの肩を掴んだ。
「…」
押さえた声で囁きかける。は不思議そうにこちらを見上げた。そして俺は、その美味しそうな艶やかな唇を―――
「お客さん」
―――奪おうとしたところで、無粋な声が割り込んできた。なんや!?と睨みつけると、ルームミラーごしに白い目と視線がかちあう。白目だったわけではない。俗に言う白い目で、タクシーの運ちゃんがこちらを見ていたのである。
見ると、タクシーは俺のアパートの前に止まっていたのだった。
「着きましたけど」
「…はあ。すんません…」
呆れ返った声に、俺は何故か謝りながら支払いを済ませた。
まだふわふわして眠そうなをタクシーから下ろし、俺もそそくさと下りる。そしてさっさと立ち去っていくタクシー尻目に、ひょいっとを抱き上げた。は特に抵抗することなく、大人しく俺の首に掴まる。
先ほどはしっかり邪魔をされたが、夜はまだまだこれからである。酔っているに何かするのは気が引けるが、それよりも今ならば、この間が酔った時には過ごし損ねた甘い時間を過ごせるかもしれない…!
俺は奮然とアパートの中へ足を踏み入れた。
のだが、やはり、そうは問屋が卸さないようだ。
部屋までのほんのわずかの間に、すやすやと寝息を立てはじめてしまった天使を見ながら、俺はため息を吐いた。ものすごく気持ち良さそうに眠っている。アルコールのおかげだろう。まだ着替えていないから着替えもさせてあげなければいけないのに、この仕打ちか。先ほどは感謝した神に向かって、今度は悪口雑言を投げつけたい気分だった。
可愛い寝顔を見下ろしながら、俺は深くため息を吐く。今夜も眠れなさそうや…。