「よく意味がわかんないとこがあるの」

 セミダブルのベッドに腰掛けながら、文庫本を手にした彼女は眉を潜める。珊瑚色の小さな唇を可愛らしく尖らせて、しかも何個もあるの、とは続けた。

「子供向けとは言え、外国文学やからなぁ」

 その上、クラシックなのだ。英単語の聞き間違えのジョークなどは、それぞれの単語すら知らないには退屈以外の何物でもないのだろう。

「なんか眠くなってきちゃった…」

 本当に眠そうに言って、彼女は欠伸をする。夜伽がわりにと、買ってきたばかりの文庫本を開いたのは彼女自身だったはずだが、今では罰ゲームで読まされているかのようだ。子供向けアニメじゃなくて原作に忠実な翻訳の文を読みたい、そう言ったのも彼女だった筈なのだが。

「なんか、会話が繋がってないもん…」

 一応文を目で追ってはいるのだろう。しかし意味はあまり理解出来ていないらしい。

「多分、原文で読んだらある程度繋がってるんやと思うわ。せやけど、英語のユーモアなんて母国語の人らにしか分かれへんからなあ」

 慰めるように頭を撫でてやると、はむう、と頬を膨らませた。そう考えるとアニメのって上手く出来てるんだね、観念したように言う。

「ね、侑士もわかんない?解説出来ない?」

 お勉強の苦手なは、早々に自分で考えることを放棄してこちらを振り向いた。期待に満ちた瞳に苦笑しながら、ぴったりと寄り添った柔らかい身体を更に引き寄せる。

「してもええけど、英語の授業みたいになるで?」
「……それはやだ」

 俺の返事を聞いて、はまた唇を尖らせる。少し理解力のにぶい彼女にわかりやすく説明出来るほど、自分も語学が堪能ではない。彼女の手の中の、ただ開かれているだけの文庫本を取り上げて少し文を追う。すっかり読む気を無くしている彼女は取り上げられても何の抵抗も示さなかった。
 読みづらいのは、馴染みない文学の所為だけではない。翻訳の文体が口語であるからだろう。が、これは子供向けの文学であるが故だ。

「これ、口に出して読んだらもうちょい解り易いかもしれへんな」

 ふと思い付いて言ってみる。そうなの、とはキョトンとした表情でこちらを見上げた。

「うん、読んでみ」

 手渡すと、解決の糸口が見えるかもしれないということでは笑顔で頷いた。さっそく開いて、国語の時間のように朗読を始める。

 ところどころつっかえながら、丁度開いていたページをは読んだ。…意味がわからないと言い出したのは、もう少し先だった気がするのだが。おそらく考えなしに、目に入ったものをそのまま読んだのだろう。
 しかし口に出すことで少しは理解できるのか、先ほどより退屈そうではない。彼女の愛らしい声が、ゆっくりと物語を追いはじめた。
 時刻は深夜もいいところなので、寝物語としては遅すぎる。愛らしい声が、何故か、何処か、髄に触れて染みる様な気がした。直ぐ傍に寄り添っているからだろうか。

 もともとは小さな子供の為に紡がれた物語だったらしい。いつだったかそう聞いたことがあった。そんな児童文学をの唇と舌が一音一音、殊更にゆっくりと形にしていく。
 それを、頭ひとつ分高いだけの至近距離から俺は眺めていた。段々と、話の内容などは如何でもよくなってくる。一度軽く目を通したし、そもそも彼女が好きだと云うから内容を理解しようと思っただけで、本当は物語自体に興味はないのだ。興味があるのは、彼女の思考、行動、好意の矛先、そんなものばかりなのだから。

 彼女の声はどんどん、ゆっくりしたペースのままで部屋に溜まっていく。不条理で筋道立たない、もともと意味などあってないような話だ。ただ読むよりは理解出来たとしても、やはりはだんだんと飽きてきたらしい。口調が鈍り、間が多くなってきた。
 俺はといえば、既に物語を聞くことなど放棄していた。ただ彼女の声の耳触りと、声を発するときの柔らかな身体の振動――寄り添って密着しているから分かる――と息遣い、唇の動きに集中していた。ほんの一瞬も見逃さず、聞き逃したくはなかった。普段のおしゃべりとは違う彼女の声が、ひどく艶めいて聞こえる。

 答えのない言葉遊び。異なる言語に翻訳されたことで、踏まれていただろう韻はどこにもない。根拠のないなぞなぞをが口に乗せる。途切れながらも流れるような物語が、部屋の空気に紛れて浮かんでいるような心地がした。なるほど、翻訳家もただそのまま訳したのではない。形にすることでよく分かる、絹のように滑らかな文章だ。
 されど、部屋にの言葉が満ちていくのを感じる度、如何しようもない衝動に襲われた。

 ご機嫌に囀っている時とも違う。丸い瞳で睨みつけながら怒っている時とも違う。はしゃぎまわる笑い声とも、甘えて身体をこちらに預けている時とも。何処か気取って、誰か――俺ではない誰かに聞かせるような声だ。現代国語の授業中に、当てられて立ち上がり教科書を朗読するときのような。

 俺は彼女が授業で朗読するのが、堪らなく嫌だった。の愛らしい、誰かに聞かせる為の声が俺ではない人間の耳に入る。鼓膜を震わせ、その振動を伝えるのだ。それが堪えられなかった。
 この腕の中でだけ、俺にしか聞こえない声で、俺にだけ話せばいい。それで総ては事足りる、そう思わせたかった。


 ゆっくりながら紡がれていた物語は、やがてとうとう途切れてしまう。飽きたのか、いや、やはりわからないと匙を投げたのか。ぱたんと軽い音を立てて文庫本が閉じられる。彼女の手によって。俺はそれを待ち侘びていた。
 腕の中で響くのでは物足りない、確かにそう思っていた俺は、黙り込んだ唇を躊躇いなく塞ぐ。艶めくような朗読の声よりも、もっと違う声が、息遣いが聞きたかった。
 細い肩に回した腕に少しだけ力を込める。すっかり口内を蹂躙し尽くしてしまうと、小さな息を吐いては俺の胸元にその頭を凭れさせた。

「ゆうし」
「うん?」
「読んで」

 まだ諦めていなかったのか、明らかに熱のにじむ声でそんなことを言う。薄い文庫本を俺に差し出すので、受け取ってサイドテーブルに押しやってしまった。きっと俺が読んだところで、彼女は途中で飽きてしまうに違いないのだ。

「また明日な」

 そう言って、再び呼吸を奪う。くぐもった息を彼女が漏らす、その甘やかな雫を舐め取るように。部屋にあふれてしまったのよそ行きの声を、すべて腕の中に集めてしまわなければ。
 は頷いて、俺の名前を呼んだ。俺にだけ聞こえる、小さな小さな声で。