なんて小さな背中だろう、と思った。うずくまった身体が夕日に照らされて、影が床に長く伸びている。肩が揺れて、しゃくりあげるような声が聞こえる。泣いている、と咄嗟にそう思った。
思わず立ち止まり、踏み出せずにたたらを踏んだ。リノリウムの床に上履きが擦れて甲高い音を立てる。
その音に反応してこちらを振り仰いだその瞳は、やはり涙に濡れていた。
とても同い年とは思えない、というのが、一番初めの彼女に対する見解だった。
とにかく彼女はひどく無邪気で、素直だった。制服を着ているのでかろうじて中学生だと解るが、そうでなければ、小さな子供のようだった。見た目だけではなく、言動も行動も。
きっと元来俺は世話好きの気があったのだろう。なんとなく放っておけずに世話を焼いた。初めは手間のかかる妹のように思っていた。
彼女の素直さは俺にとってひどく眩しいものだった。欲しいものは欲しい、嫌なものは嫌、大好きなものはとにかく大好きだと、全身で表現をする。つまり体当たりでリスクも大きいが、彼女の場合その愛嬌で不思議に乗り切っていた。 全身で表現するのが常であったが、最もわかりやすいのが表情――とりわけ、瞳だった。彼女は興味のあるものしか、その黒い瞳に映さない。視野狭窄だと言ってしまえばそれまでだが、つまりそれは彼女の真っ直ぐさの現れなのだ。
少なくとも自分はそれを好ましいと思った。
世話を焼いてやると、ありがとう、と言ってうれしそうに笑った。彼女には出来ないことをやってみせると、すごい、と瞳を輝かせて喜んだ。興奮して跳びはねる子犬のように、懐いて慕ってくれた。きっと彼女も自分を兄のように思っているだろうと思っていた。
ただ時々、照れたようにはにかむことがあった。その表情を見る度、息が止まるような心地がしていた。頬を染めて微笑む少女のなんと愛らしいことか、しかし自分でも自分の感情が信じられなかった。
自らの裡に水鏡のようなものがあり、それは静かな湖のように殆ど波立つことはない。ずいぶんと昔から、そんな風に感じていたのだ―――テニスを除いては。
自分の人生におけるふたつめのイレギュラー、それが彼女だ。
夏の夕暮れ、教室の中にうずくまる彼女を見た瞬間に、凪いでいた湖が波立つのをはっきりと感じた。
彼女の真っ直ぐな視線が、自分だけに向けばいい。愛らしい微笑みを、他の誰にも見せたくはない。確かにそう思っていたのだと、判然と理解をした。
自分は、彼女に恋を――そう呼ぶには感情が強烈過ぎる気もしたが、そう表現する他にない――しているのだ。
「………」
泣き顔のまま、ひどく吃驚したというようにこちらを見ていた彼女の名前を呼ぶと、彼女はすぐに顔を俯かせてしまった。恐らく、泣いているところを見られたくなかったのだろう。
もう下校時刻も過ぎている。こんな時間に、校舎内に生徒がいると思わなかったに違いない。
数秒躊躇した後、しかし彼女のうずくまった体を覆う西日が許せずに――何者も彼女に触れるなと確かに思った、自分以外は――意を決して教室の中に踏み込む。彼女の小さな肩がビクッと跳ねたが、気づかないふりをした。
「、どないした?何かあったんか?」
いつも通りの優しい声音で問い掛ける。――いつも通りの声は出せていただろうか。それすらわからない程、恐らく俺はこの瞬間冷静ではなかった。
そして彼女の「なにもないよ」という、明かな涙声のいらえに、また少し近づいて言う。
「何もないこと、あらへんやろ?…泣いてるやん」
「ないてない、よ」
ぐすぐすと鼻を啜りながらそんな事を言う。素直で元気な彼女は、その実強がりだ。うっすらと気づいてはいた。そう、もっと自分を頼ればいいと、そう思っていたのだ。
無邪気な彼女の素直な瞳とその感情は、仲の良い友人にも好きな教師にも、均等に向けられているものだった。しかしそのうちの誰にも、きっと彼女は涙を見せていないのだろう。でなければこんな放課後の教室で一人ぼっちで泣いている筈がなかった。小さな体を更に小さく縮こまらせて。
俺はこの場に居合わせた幸運に感謝した。存在すら解らない神に感謝してもいい、そんな気分だった。
そうして俺は、うずくまる彼女のすぐそばにしゃがみ込む。
「」
優しい優しい声で呼んだ。
「なあ、そんなふうに泣いとっても、苦しいやろ?」
抑えた声音で言って、いつもするようにそっとその柔らかい髪を撫でる。彼女は少し反応したが、驚くことも嫌がることもない。
「つらいときは、おもいっきり泣かなあかんねん」
「…そ、かな」
小さな小さな声で、彼女が答える。もう少しだ。
素直で元気な彼女の中の小さな砦は、恐らくひどく脆い。淋しがりの小鳥のような魂は、温かく受け止めてくれる場所を探している――そう思った。
「なあ、……」
甘い蜜を垂らすように、名前を呼ぶ。優しい声に、小鳥も安心するだろう。何も恐ろしいことはない、飛び込んで頼っていい、そう感じる筈だ。
ふたたび鼻を啜って、彼女はとうとう振り向いた。柔らかい髪を夕日が縁取る。丸い瞳に涙を湛え、虹彩が宝石のように輝いていた。きっとこの瞳が世界で最も美しいに違いない。
そうして、おいでと言う俺の言葉を合図に、小鳥は砦を飛び出して来たのだ。俺の腕の中という、新たな砦の内まで。
俺の制服のシャツにしがみついて、彼女は泣いた。声を上げて、という程ではないが、嗚咽を零しながら。
泣いていた理由は、親と喧嘩したから家に帰りたくないという至極中学生らしい理由だった。話を聞いてやりながら頭を撫で宥め、帰ってちゃんと謝って仲直りをする、と説得をして家まで送ってやった。
別れ際泣き腫らした目でふにゃっと笑って、ありがとう、と言った表情が忘れられない。
以来彼女は、以前より俺を頼るようになり、更に懐いてくれたようだった。
おそらくは信頼を寄せてくれたのだろう。そうなるよう仕向けたのだから当然のことだった。彼女が望むのなら、出来るかぎりのことを叶えてやりたいと思う。甘やかして甘やかして、蜜に浸してこの砦の外では生きられないくらいに―――願わくば、どうか彼女も自分に恋をしてくれるように。
「、次移動やろ」
「あ、そっか」
「教科書とノートこれやな?行こか」
「うん」
今日もかいがいしく世話を焼きながら、彼女はそれと気づかずに砦の内で生きている。素直に頷くちいさな頭が、かわいらしくていとおしい。つい撫でてやると、は不思議そうに首を傾げた。
「ね、そういえばいつのまにか名前で呼んでるね」
「うん、そうやな。…あかんかったか?」
「ううん、あかんくないけど。でもなんでかなあって」
純粋に疑問に思ったのだろう、そう尋ねてくる。嫌がっていないことに安堵しながらも、再び頭を撫でながら俺は答えた。
「なんでって、ええ名前やし呼びやすいし。名前で呼びたいなー、思て」
本当は、周囲への牽制と彼女自身へのアピールが1番の理由なのだが。
彼女は俺のいらえを聞いて、ふうんそうなんだ、と得心したように頷く。…周囲への牽制はともかく、彼女に対しての効果はあまり望めていないらしい。
しかしそれも承知の上であった。どれだけ時間がかかってもかまわないのだ、彼女の心が手に入るのならば。
困った時、悲しい時、きっと彼女は1番に自分を頼るだろう。まずはそれで構わない――まだ、今は。
